「小説におけるトポロジー(抜書) - 島田雅彦」小説作法ABC から

 

 

「小説におけるトポロジー(抜書) - 島田雅彦」小説作法ABC から

(A)ヨソモノの視点で場所を見ること
先の章で、描写する力を身につけるところで、つぎにその描写力をふんだんに発揮すべき項目について考えておきましょう。それは、物語の出来事が出来する場所=トポスについてです。
小説において、場所をどこまでつくりこむかが、その作品のリアリティを実質的に決定するといっても、過言ではありません。場所が上手に書けているかどうかが、その作品の評価を左右する場合もあるほどです。
日々、大量生産されている日本の現代小説の九割がたは、東京を舞台としています。本来、田舎でも外国でもいいはずの小説舞台ですが、文学マーケットで取引されているものの多くは、東京が舞台である。それも、長らく東京に暮らす人物にとっての「地元」としてではなく、移り住んで三年、せいぜい一〇年といった、いわば「ヨソモノ」の視点から見た東京が描かれることが多いようにも思います。
小説のトポロジーには様々なカテゴリーがありますが、数の上からすれば、東京を含むところの「都市」をおもな出来事の舞台とする作品が多く、その他のトポスとして、山や海といった「田舎」、特殊なところでは「宇宙」や「植民地」、またSF作品における「サイバー空間」なども、ひとつの小説のトポスとして捉えることができます。
そもそも小説は、都市と農村の位置エネルギー(=生産エネルギー)とでもいうのか、地域間の格差を埋めるようななかたちで発展してきた歴史をもっています。近代文学に限っていえば、都市が舞台になっている小説の主人公は、たいていが田舎者です。田舎から上京し、そこで近代産業社会の構成員たる資格を獲得していく。いわば、立身出世の道のりが描かれるわけです。立身出世のために田舎から出てきた若者の物語-これが長らくポピュラーなものでした。
たとえば、漱石の『三四郎』はその代表格です。三四郎の故郷は熊本、田舎のシンボルとしての熊本です。そんな地方出身の青年が、本郷を中心とした東大文化圏に所属する。つまり、立身出世コースに入って、近代日本を背負って立つのだという自負をもつ。これは、ヨソモノの視点から見た東京の姿ともいえ、東京にべったりはりついている地元民には見えない細部を、照らし出すことができるというメリットもありました。

 

三四郎が東京で驚いたものは沢山ある。第一電車のちんちん鳴るので驚いた。それからそのちんちん鳴る間に、非常に多くの人間が乗ったり降りたりするので驚いた。次に丸の内で驚いた。尤も驚いたのは、何処まで行っても東京が無くならないと云う事であった。しかも何処をどう歩いても、材木が放り出してある。石が積んである、新しい家が往来から二三間引込んでいる。古い蔵が半分取崩されて心細く前の方に残っている。凡[すべ]ての物が破壊されつつある様に見える。そうして凡ての物が又同時に建設されつつある様に見える。大変な動き方である。
三四郎は全く驚いた。要するに普通の田舎者が始めて都の真中に立って驚くと同じ程度に、又同じ性質に於て大いに驚いてしまった。今までの学問はこの驚きを予防する上に於て、売薬程の効能もなかった。三四郎の自信はこの驚きと共に四割方滅却した。不愉快でたまらない。》
(夏目漱石三四郎』)

東京に出てきた田舎者というのは、たいてい田舎から出たくて仕方のなかった人物なので、もっと広い世界に飛び出したいとの欲求があります。だからこそ、東京に到着したとたん、羨望の眼差しですべてを観察しにかかるでしょう。都市住民には都市住民の言い分があるにせよ、ヨソモノの目には、そこは光り輝く都と映ります。最新の風俗の最前線も観察でき、外国からの情報もいちはやく消費される現場なのですから、田舎にいるときとはまったく異なる、広い視野が得られます。近代文学のトポスの中心、舞台の中心は、そうした人物のパースペクティヴによって捉えられた場所ということになります。
いまもこの傾向はつづいています。現在、活躍している現代作家の出身地を調べても、おそらく東京出身者はあまり多くないのではないでしょうか。関西、九州の出身がやたらと多い。たとえば九州出身の作家としては、リリー・フランキー吉田修一の名前を挙げることができます。彼らはその上京物語で、小説デビューを果たしました。

 

《東京に来てしばらく経っても、電車に乗るたび、違和感を抱いた。標準語というものを今までテレビの中でしか耳にしていなかったから、電車の中のブサイクなオバサンや、気味の悪いオジサンまでもが、そのテレビの中の言葉を使うことに馴染めなかった。
高校を卒業して一ヶ月しか経っていないのに、大学の中で煙草を吸っても酒を飲んでも誰かになにを言われるでもない。
なにを着ていようと授業をサボろうと何事も起きない。おかしな違和感とだらしのない自由。
ほとんどの同級生がボクより絵が上手い。ボクの知らない映画や音楽がたくさをあった。キレイな女がたくさんいる。驚くほどギターの上手い奴もいる。お嬢さんみたいな女やモヒカンの女。醤油味のラーメン。真っ黒なうどん。二十四時間営業のゲームセンター。オールナイトの映画館。乞食ではなく、ホームレス。その横を走る外車。青林堂のマンガ。牛丼。ディスコ。ビリヤード場。MTV。パンクのギグ。アイドルのコンサート。汚い海。サーファー。だだっ広い公園。高層ビル。チャラチャラした大人。オトナっぽい子供。人。人。人。人。人。人。人。物。物。物。物。物。ビル。ビル。ビル。ビル。ビル火災。》
(リリー・フランキー『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』)

《種明かしをされた今では、きのうの夜を引き摺っていたようなあの退廃も、実はその大学生とのセックスに疲れていただけだったのだし、あの執着心の無さについても、もう一つの世界では、人並みに愛されようとしていたわけで、神秘性など微塵もなかったということだ。
それでも朋子同様このぼくも、彼の存在には異常な興味を持っていた。
高校を卒業して一緒に上京してきた時、ぼくらは秘密を教え合った。
今思えば割の合わない取引だったような気もするが、あの頃のぼくにはそれほど重大なことだったのだろう。
ぼくは自分が真剣に詩を書いていることを右近に告白した。彼はそのお返しとして、自分が男しか愛せないのだと教えてくれた。
実際、種明かしをされてからも、ぼくはやっぱり自分が書く詩の行間に、右近が横たわっていてくれることを願った。しかし、どう足掻いても、ぼくの言葉が右近に変身することはなかった。
上京して一人暮らしをするようになって、ぼくは初めて自分の声を聞いたような気がする。ふと気づくと、一日中誰とも口をきいていない日がよくあった。静まり返った部屋の中で、ぼくは恐る恐る声を出してみた。何を言えばいいのか自分でも分からず、その時の正直な気持ち「腹が、減っています」と声に出して言ってみたのだ。初めて聞く自分の声は、思っていたほど孤独ではなかった。
そんな暮らしを続けているうち、右近につれられて、新宿で飲み歩くようになった。気にしたこともなかった他人の視線というものを、ぼくは気にするようになっていた。いつの間にかまた、必死に右近になろうとしていた。》(吉田修一最後の息子」)

生まれも育ちも東京という人間がただ東京を描いても差異は見えてこず、東京を他者のまなざしで浮き彫りにすることは難しい。そこで、私のような東京者は、都心からあえて離れようとします。しかし田舎暮らしもできないので、やむなく都市と田舎の中間に「郊外」という第三の場所を設定し、そこに立脚することによって、都市をヨソモノの視点から眺めようとします。短いかもしれないが、距離をつくろうとしているのです。