「深川土産 - 三浦哲郎」日本の名随筆別巻48夫婦から

 

「深川土産 - 三浦哲郎」日本の名随筆別巻48夫婦から

茶箪笥の棚をガラス越しに覗いてみると、津軽塗の菓子鉢に、深川から買ってきた茶菓子がいくつか残っている。
きんつばと、まんじゅうと、素甘がそれぞれ二つずつ。五人家族が、どの菓子も一つずつ味わえるように、全部で十五個買ってきたのか、いまはそれだけ残っている。
深川へいってきたのは、この前の日曜日だったから、もう四日目になる。早く食べてしまわないと、だんだん乾いてまずくなる。残っているのは誰の分だろう。素甘の一つは私の分だが、あとは誰のかわからない。妻は、甘いものには目がなくて、四日も我慢できるわけがないから、多分、子供たちの誰かが食べずにいるのだ。
子供は三人とも女の子だが(といって、もう上はもう二十になる)、どういうものか甘いものはあまり欲しがらない。とりわけ餡の入ったものなどはむしろ苦手にしているといっていい。妻は、酒好きの私に似たのだというが、その私は近頃めっきり酒量が落ちて、以前は見向きもしなかった甘いものにもたまには手をだすようになっている。
きんつばと、まんじゅうとは、買ってきた日の晩のうちに食べた。素甘というのは、あまり馴染みのない菓子だが、柔かすぎて歯にくっつきそうだから、すこし固くなるまでと思ってわざと残しておいたのである。けれども、きんつばやまんじゅうは、なるべく早く、固くならないうちに食べた方がいい。
妻はどこにいるのか、姿が見えない。おいと呼んでみても、返事がない。さっき郵便物を取りに降りてきたとき洗濯機の唸りがきこえていたから、裏屋根の物干しにでもいるのだろうか。
茶箪笥のガラス戸を開けて、菓子鉢の素甘の一つをちょっと指で突っついてみる。やはり、前よりいくらか固くなっている。ついでに、そいつを指で摘んで、ほんのひとくち、と思ったが、歯形をつけただけでやめてしまった。素甘は、程よく固まった代わりに、随分腰が強くなっている。こんなものをうっかり深く噛んだら、そのまま、にっちもさっちもいかなくなる。もはや、なんでも思うさまに食える時代は過ぎ去ったのだ。歯のうちの何本かが、いまは義歯だということを忘れてはいけない。

この前の日曜日に、夫婦で深川まで出かけたのは、べつに用事があってのことではなかった。実は先週の金曜日からその日曜日にかけて、私たちは郷里で寝たきりになっている老母を見舞ってくることにしていたのだが、折悪しく台風がきて帰郷を見合わせなければならなくなった。仕事と時間のやりくりをして拵えた日程だから、急に取り止めということになったりすると、そこだけぽっかり穴が開いたようになる。旅が中止になればなったで、しなければならないことはあるのだが、拍子抜けしてなにも手につかない。しかも、台風一過の日曜日は、家にじっとしているのが勿体ないほどの秋晴れになった。
「なんだか落ち着かないから、どこかをあるきましょうか。」
妻がそういうので、どこか歩いてみたいところがあるかと訊くと、妻は即座に、
「深川」。
といった。
私は、なるほどと思った。妻は深川の洲崎の生まれで、戦争末期に父親の郷里の栃木へ疎開するまでそこで育った。また、私にも、戦後初めて東京へ出てきたばかりのころに、木場の木材会社にいた次兄を頻繁に訪ねた一時期がある。そんなことで、私がまだ学生のころ、寮の近くのちいさな料理屋で働いていた妻と二人で、いちどお互いに思い出のある深川を歩きに出かけたことがあった。
「あれ以来、いちども深川を見てないでしょう。もう何年になるかしら。」
妻は指折り数えて、二十五年にもなるといった。すると、あのとき妻は二十で、私は二十三だったわけだ。私はその後、その初めての深川歩きから結婚するまでのいきさつを『忍ぶ川』という小説に書いたが、それからでさえ、もう十八年が過ぎ去っている。
以前は、東京駅から錦糸町へ通う都電があって、それに乗って東陽公園前という停留所で降りればよかったが、もうその都電はなくなっている。それで子供に調べて貰うと、東西線という地下鉄に東陽町という駅があることがわかった。その地下鉄東西線の最寄りの駅が高田馬場だということもわかった。私たちは、高田馬場で地下鉄へ乗り換えることにして、子供たちに留守を頼んで出かけていった。

 

地下鉄の東陽町駅から地上へ出てみて、私たちはびっくりした。あれから二十五年にもなるのだから、かなり変わっただろうとは思っていたが、そのあたりの変り様は私たちの想像を遥かに上回っていた。見渡す限り草ぼうぼうの荒地だったところが小綺麗な街になり、どちらを向いても大きなビルや高層住宅が聳えていて、ひょっこり地上へ出てきた私たちにはなにやらエキゾチックな感じさえした。あのころ、あたりで最も大きな建物だった東陽小学校の校舎など、すっかり町並みのなかに埋もれてどこにあるのか見当もつかない。私たちは、街角に佇んでものの五分もあたりを見回してから、ようやく東陽公園のわずかばかりの緑を見つけて、そっちへ交差点を渡っていった。
公園の裏手の東陽小学校では、ちょうどその日が運動会で、鉄パイプの扉を閉めた裏門のむこうに、白シャツや赤鉢巻の群れが狭い校庭を揺れ動いているのが見えていた。妻は子供のころ、洲崎からこの小学校に通ったのである。
「ほら、運動会のとき、底の厚い足袋みたいなものを履いたでしょう。あれ、なんていいましたっけ。」
そういえば、私も子供のころにそんなものを履いた憶えがあるが、名前はもう思い出せない。妻は、戦争がだんだん激しくなるとその足袋も手に入らなくなって、しまいには裸足で運動会をしたといった。
「校庭はそのころからコンクリートだったけど、裸足でもちっとも痛くないの、薄いゴムでも敷いたみたいに。不思議な校庭だったわ。」
妻はそんなことをいって、しばらく門のところから運動会を見物していた。
公園を出てからは、どちらからともなく、初めて一緒に歩いたときとおなじ道順をたどった。二十五年前の二十の妻は、白っぽい麻の着物に橙色の夏帯を締めていた。七月の暑いさかりで、日ざしをさえぎるものは妻のパラソルだけだったが、いまは立ち並ぶビルやマンションが道に影を落している。おびただしい木材を浮かべていた貯木場など、もうどこにも見当らなかった。
次兄の会社があったあたりに、一つだけ製材工場が残っていた。日曜日のせいか、ひっそりとして人影もなかったが、それでも立ち止まると木の匂いがした。兄がここから突然行方知れずになってから、今年でもう三十年になる。私は、兄が工場の奥の暗がりから出てくるのを待っていたころのように、しばらく道端に佇んで木の匂いを嗅いでいた。
洲崎は、ざっと歩いてみたところ、もう娼婦の街だったころの翳はどこにもなくて、普通の明るい下町になっていた。妻が生まれた射的屋の跡はちいさな駐車場になっていて、路地に魚の干物を焼く匂いが漂っていた。私たちは、洲崎橋のたもとの蕎麦屋で一と休みして、私はざるでお銚子を一本だけ飲んだ。それから、妻は子供のころあんみつを食べたことがあるという和菓子屋で、きんつばと、まんじゅうと、素甘を土産に買ったのだが、それがまだ茶箪笥の菓子鉢にそれぞれ二つずつ残っている。
私は、妻が戻ってきたらお茶を淹れて貰おうと思って、鉢ごとテーブルに出しておいたが、なかなかあらわれない。妻にこの素甘をあげるといったら、どんなふうにして食べるだろう。妻にも何本か義歯があるー私は、自分の歯形のついた素甘を眺めて、ぼんやりとそんなことを考えていた。