「チノパンと赤ワイン - 松尾スズキ」人生の謎について から

 

「チノパンと赤ワイン - 松尾スズキ」人生の謎について から

飛行機は羽田空港の滑走路に着陸し、がたたたた、と細かく震えながら到着口を目指してのろのろと前進している。
そして私は、着陸してから完全に静止するまで、こんなに飛行機というものは地面を移動するものなのか、と、頭の片隅でじりじりしつつ、ひたすら五十八歳の大人らしい謝罪の言葉を頭の中でシミュレーションするが、それでいて口から出てくる言葉が「もうしわけありません」と「すみません」ばかりであることに、顔面蒼白になっていた。Tシャツが、ものの一、二分でもって汗でべとつき始めているのがわかる。
プレミアムシートという席に座っていた。山形から羽田。国内を小一時間飛行するのに、普段そんな贅沢はしないのだが、今回は、仕事先のスタッフが用意してくれたので、遠慮なくせのゆったり目のシートに座らせていただいたのである。最前列の席なので快適だ。知らなかったが、プレミアムシートでは、軽食とアルコールのサービスまであるのだった。食事はすませていたが、アルコールは意地汚い方で、飲ませてくれるというのに飲まぬ選択はない。なにしろそのひは大きな仕事を終え、帰宅するばかりなのだ。
ビールは空港のレストランで出発前の暇つぶしに飲んでいたので、赤ワインをいただいた。小さなボトルとプラスチックのグラスをうけとり、雑誌を読みながらちびちびやる。一時間なのであっという間だ。飛行機は高度を下げ、着陸態勢に入った。なんてことを思っていたら、がこん!と激しく機体が揺れ身体が前のめりになり、思ったより早く滑走路に着いたのがわかった。そのときだ。手すりに置いていた、まだ半分弱ほどワインが残っていたグラスが衝撃で跳ね上がり、手前の壁にぶつかって、中身が飛び散ったのである。
隣には、私とおない歳ぐらいのおっさんが座っており、そのチノパンをはいた足に赤ワインの飛沫が威勢よくぶちまけられた!私には一切かからない。ただただおっさんのチノパンとニューバランスのスニーカーにだけ、赤い模様がまだらに散ったのである。
最悪。
私の頭をまず占領したのはその一言である。
iPadで映画を見ていた人生経験豊富そうなおっさんは、表情も変えずに搭乗時にCAからもらったおしぼりで赤ワインが飛んだ場所をぺしぺし叩き始める。
かつて、赤の他人に飲み物をこぼしたことが二度ある。そのときの記憶を一瞬で反芻していた。一度目は、三十代の頃、下北沢のおでん屋。酔っ払ってカウンターのビールを倒し、隣のサラリーマンのスラックスをびしょびしょにしてしまった。私が「ごめんなさい!」と謝ると、リーマンは「ああ、ああ、これは……ごめんなさいたなあ」と怒気をはらんだ声で言ったが、最終的には、「ま、ま、ビールだから、大丈夫っしょ」と許してくれた。二度目は、四十代。今回と同じ、飛行機の中だった。私は、着陸後、左手に水のペットボトルを持っているのを忘れて自分の荷物を荷物入れから降ろそうとして、ペットボトルの水を真下に座っていたリーマンの肩にかけてしまった。そのときは、少量であったが、何度謝ってもリーマンは、目も合わさず無言でスーツにかかった水をハンカチで拭きながら機内から出ていった。「ま、水だし!」となんとか自分を納得させたが、謝罪を受け入れてもらえない息苦しさは、数日身体の中でとぐろを巻き続けていた。
今回は赤ワインである。まごうかたなき、しっかり目の色がついた液体である。人にかけたらもっとも不快にさせるやつだ。おっさんは「もうしわけありません!」と謝る私を「大丈夫だから」というように手で制し、ただただチノパンの汚れをどうにかしようとしている。その表情はうつむいているのでわからない。CAはこの事態に気づいているようだが、機が静止していないので、席から動けないようだ。早く到着口に着いてくれと思うのだが、私の心をじらすように、ゆっくりゆっくりとしか動いてくれない。
クリーニングのお金を払うことも考えたが、自分が彼ならうけとるだろうか?うけとらない。せいぜい二、三千円である。お互いプレミアムシートに乗れるような大人で、しかも、赤ワインが飛んだ理由の第一位は、着陸の衝撃が強すぎたことであるのもわかっているからだ。無理に払おうとすれば、逆に不快に思う可能性もある。
しかし正直、間が持たない。機内が静か過ぎる。
これでも私は俳優だ、相手を不快にさせず、かつ本気度が伝わる音量で適切な謝罪ぐらいできるはずだ。そう思い、すうと息を吸い込んで渾身の「もうしわけありませんでした!」と吐き出した。すると、おっさんは私にこう言ったのだった。
「一時間じゃ、飲みきれんですよねえ。大丈夫、ズボンからええ匂いがしますけえ」
どこの方言がはわからなかったが、そう言ってくれた。笑顔つきだった。
いったんホッとした。しかし、のろのろのろのろ、その後も飛行機は到着口を求めていっこうに停まらない。その間、やはり「すみません」「もうしわけありません」を繰り返すしかないほど、おっさんのチノパンは無残な状況で、しまいにはおっさんも私から浴びせられる謝罪のプレッシャーに「はっはっは」と、笑いだしてしまうのだった。
渾身の謝罪とそれを赦すタイミング。どちらも早すぎたのだ。謝罪の牢獄と化した機体は、まだまだのろのろ進む。

人生ってなんなんだ。