「耄碌寸前 - 森於菟」

 

「耄碌寸前 - 森於菟」

私は自分でも自分が耄碌しかかっていることがよくわかる。記憶力はとみにおとろえ、人名を忘れるどころか老人の特権とされる叡智ですらもあやしいものである。時には人の話をきいていても異常に眠くなり、話相手を怒らしてしまうことすらある。「私はもう耄碌しかかっているのです。このあわれな老人をそっと放置しておいて下さい」といっても世間の人々は時に承知せず、ただ赤児のように眠りたい老人の春日の好眠からたたき起こそうとするのだ。私は本年とって数え年の七十二、世間ではまだまだはなばなしく活躍している人もいる。また今度ある私大の医学部長を定年退職した私に、御世辞には違いないが、「今から好きな研究がお出来になりますね。御自分の研究所を御建てになりますか?」などと言ってくれるのもある。しかしながら私は自分の頭脳状態が研究どころではないことをよく知っている。今から老の短日を過すために、世間の老人並に草花をいじろうと思っても、その草花の名が覚えられるかすら覚つかない。暇つぶしに人の好んでやる碁将棋の類は天性はなばだ不得手で慰みにならない。どうやら、これからの私は家族の者にめいわくをかけないように、自分の排泄機能をとりしまるのがせい一杯であるらしい。
ともかく不幸中の幸は私が凡庸な人間に生れついたことだ。私は医学者としても大きな仕事を残さなかったし、思うところあって文学者にもならなかった。偉大な頭脳の持主といわれた父に較べれば如何に卑小で不肖の子であろう。だが、いたずらに己をさげすむことはすまい。なぜなら愚かな息子を持つことは、父にとっても決して名誉ではないはずだからだ。妹茉莉をつれて渡欧する日、東京駅に私たちを送りに来てくれた父の顔が今でもまざまざと眼底にうかぶ。思えばその年は父の死の年であり、夏も熟さぬうちに「一、石見の人」としてこの世を去ったのである。享年六十一歳。この年の若さに私は今さらながらおどろく。子としての私の眼にもあくまで偉大な人であったあの父が現在の私よりも十二支ひとまわりも若年であったとはほとんど信じがたい。けれどもこれは事実なのだ、と私は己に幾度もいいきかせる。そして世間の私への非難の言葉とでもいうべきものを空想する。「息子が六十一で死に、父親こそ日本文化のためにより長命であるべきであった」と。

だが、父はあれでよかったのだ、と私はいいたいのだ。世人は再び私の言葉を虚妄の言として難ずるであろうか。しかし、私は医学を学んだ者である限り、人間の宿命を知っている。凋落を必至とする肉体の上に芽生えた精神の宿命を知っている。大脳機能がおとろえをみせはじめたときの思考の混乱と低迷はいかなる天才といえどもまぬがれがたいのだ。天才は夭折すべきである。相撲の横綱にも引退ぎわが大切なように、知能の横綱にも退きどきというものがある。六十一歳で世を去った父は少し早すぎたかもしれないが、私がこれからしばし生きなければならないような耄碌のカスミの中に日本のメートルといわれた父を生きさせたくない。天才の頭脳といえども合成物質に特殊なる帰趨である原素還元には抗しがたいのだ。
その点私は自分が凡庸の生れつきであることは本当に幸と思う。若くして才気煥発だった人が顔をそむけたくなるような老醜をさらすのは同情に価するが、そこは私は気が楽である。私は世間になんらのきがねもいらない。安んじて耄碌現象をたどろうと思う。そして人生の降り坂の終着駅たる墓場に眠る日を待つのだ。
私はある種の老人のように青年たちから理解されようとも思わない。また青年たちに人生教訓をさずけようとも思わない。ただ人生を茫漠たる一場の夢と観じて死にたいのだ。そして人生を模糊たる霞の中にぼかし去るには耄碌状態が一番よい。というのはあまりにも意識化され、輪郭の明らかすぎる人生は死を迎えるにふさわしくない。活動的な大脳が生み出す鮮烈な意識の中に突如として訪れる死はあまりにも唐突すぎ、悲惨である。そこには人を恐怖におとしいれる深淵と断絶とがある。人は完全なる暗闇に入る前に薄明の中に身をおく必要があるのだ。そこでは現実と夢とがないまぜになり、現実はその特徴であるあくどさとなまぐささを失い、一切の忘却である死をなつかしみ愛撫しはじめる。すでに私の老化した頭の中では人生はその固有の生々しさの大分部を失いはじめている。ざらざらしたあるいはやわらかな現実の手ざわりや血のにおいのする愛着もない。それは実質を失いほとんど形骸であるイメージになりかけている。つまり人生の実質である肉はなくなり、人生の剥製のみが人間界の名ごりを伝えているだけだ。
つらつら思うに人生はただ形象のたわむれにすぎない。人生は形象と形象とが重なりあい、時には図案のような意味を偶然に作り出しては次の瞬間には水泡のようにきえてゆく白日夢である。痴呆に近い私の頭にはすでに時空の境さえとりはらわれつつある。うっすらと光がさしこむあさまだきの床の上で時に利休がいろり端でさばく袱紗の音をきき、またナポレオンがまたがる白馬の蹄の音をきく。はたまた私は父に連れられて帝室博物館の庭を歩きながら父と親しく話し合う青年の私ですらある。現実の人は遠く観念の彼方に去り、以前の観念のみによって把握される抽象の人と考えられていたものが、今の私にとってはより具象的な現実である。老人は狂人の夢を見果てない。現実を忘れるどころか、この調子では死ですら越えて夢見そうである。私は死を手なずけながら死に向って一歩一歩近づいていこうと思う。若い時代には恐ろしい顔をして私をにらんでいた死も、次第に私に馴れ親しみはじめたようだ。私は自分がようやく握れた死の手綱を放して二度と苦しむことがないように老耄の薄明に身をよこたえたいと思う。
若者たちよ、諸君が見ているものは人生ではない。それは諸君の生理であり、血であり、増殖する細胞なのだ。諸君は増殖する細胞を失った老人にとって死は夢のつづきであり、望みうる唯一の生かもしれないと一度でも思ったことがあるだろうか。若者よ、諸君は私に関係がなく、私は諸君に関係がない。私と諸君との間には言葉すら不要なのだ(昭和三十六年六月)