「『あと千回の晩飯 - 山田風太郎』の解説 - 夏目房之介」本デアル から

 

「『あと千回の晩飯 - 山田風太郎』の解説 - 夏目房之介」本デアル から

若い頃から「成熟」という言葉に憧れていたせいか、ヘンなじいさんが好きだった。僕自身の父方母方の両じいさんもヘンだったが、大学を出た頃、古今亭志ん生聞き書き自伝『びんぼう自慢』や金子光晴『衆妙の門』を読んでシビれてしまった。二人ともとんでもなく破天荒な人生を歩んできて、そのあげくの悲惨な話、ヒドイ話を、まるで暗さを感じさせない語り口で飄々と語ってみせる。もし、グチっぽい暗さがカケラでもあったら、とても読むに堪えないかも知れない。何より語る本人がつらかろう。それでも残っている哀しさは乾いてしみじみした味になっている。微塵も湿った後悔を感じさせない。年をとるといろんなことがどうでもよくなってしまうらしい。一種の老化なのかもしれないが、それはそれで人生の幕をひく自然な芸なのかもしれない。そう思わせるものがあった。僕もできれば彼らのようなジジイになってみたい。がどうも人間の格がちがいすぎるようだ。
山田風太郎『あと千回の晩飯』にも格のちがいを感じる。日本では破格だったこの小説家はじつに率直に老いるという事実を報告してくれる。「老いてなおさかん」だとか「これからが本当の人生」とかどう考えても無理な意志を尻はたいてひり出すようないじましさがまるでない。どうやら自分の人生もあと千回晩飯をくったらおしまいと感じ、このタイトルでエッセイを連載し始めるが途中で入院の憂き目にあって中断する。
酒も煙草も飯も好き放題に摂取し「いやなことはやらない」をモットーに不規則な生活を続けてきて、なお未だに大病をしたことがないと淡々とのべている。が、じつは重度の糖尿とパーキンソン病であることが判明し入院のやむなきにいたるのだ。風太郎翁の面目躍如だが、それで人生観がかわったりもしない。(七十四歳にもなればこういう病気が現れてくるのは当たり前で、いままで無事にすごしてきたのが僥倖だったという諦念があることで、病気と闘う元気が薄い。)などと他人事のように書く。
残り少ない人生の晩飯を数えて、予定表をつくろうと試みたり、意に染まらないものは一切くわないと決意したりするのだが、結局(その企て自体が意に染まらないことに気がついて、そんなばかげた企てを放擲した。)とある。もちろん、病院からきつくいわれた退院後の糖尿病食の維持など、翌日から投げてしまう。まことに破格な楽天家で、痛みのないのがありがたいなどと入院の不自由をテレビ三昧ですごし、帰ればまた元のとおりだ。
僕が初めて入院した時は、二週間の予定を九日間で退院した。元気なままの病院生活だったにもかかわらず、筋肉や反射神経の衰弱には驚くべきものがあった。必死に腹筋や太極拳を病院内でしていたにもかかわらず、である。僕はまだまだ人生にあらがって生きているなあと実感してしまった。
風太郎翁と僕にも共通点はある。古今の臨終の言葉でいちばん好きなのが勝海舟のそれだという点だ。海舟は「コレデオシマイ」といって死んだのだそうである。