(巻三十四) 虫を聞く痛いところに手を当てて(岩佐四郎)

(巻三十四) 虫を聞く痛いところに手を当てて(岩佐四郎)

9月14日水曜日

家事は特に無し。洗濯物はよく乾く。生協に買い物に行き、青みかんほかを買い、アイス・モナカを噛りながら帰宅。

昼寝して、散歩。都住2ではパトロン婆さんと友達婆さんが階段下で猫たちに食事を与えていた。パトロン婆さんは階段で怪我をしてしばらく入院して、今月の頭に退院したのだ。やっと杖をついて階段が降りられるようになったようだ。

そういう私もつまずきやすくなり、いつ怪我をして動けなくなるか分からない。一寸先は闇である。

「詩の翻訳について(抜書) - 萩原朔太郎」日本の名随筆別巻45翻訳 から

を読んでいる。

《宮森麻太郎氏の英訳した俳句は、外国で非常に好評ださうであるが、その訳詞を通じて、外国人が果して何を感銘したものか疑問である。おそらくは歌劇ミカドを見物して、日本人を理解したといふ程度であり、俳句をHAIKUとして解釈した程度であらう。多くの場合に、外国人に好評される日本の者は、真の純粋の日本ではなく、彼等のフジヤマやゲイシャガールの概念性に、矛盾なく調和して入り得る程度の、テンプラフライ式の似而非日本である。真の本当の日本のものは、彼等に理解されないことから、却つて退屈されるばかりである。宮森氏の翻訳が西洋で受けている理由も、おそらくそれがハイカラ的俳句である為かも知れないのである。

小宮豊隆氏は、翻訳の不可能を例証する為、次の宮森氏の訳句を引例してゐる。

The ancient pond!

A frog plunged splash!

(古池や蛙とび込む水の音)

小宮氏は言ふ。俳句の修辞的重心となつているものは、「古池や」の「や」といふ切字である。この場での「や」は、対象としての古池が、ずつと以前からそこに有つたといふ時間的経過と、実在的な恒久観念と、併せてそれに対する作者の主観的感慨とを表示してゐる。句はその切字で分離されて居り、以下の「蛙飛び込む」は、目前の現実的印象を表現してゐる。そしてこの現実的印象としての瞬間が、恒久的実在の「古池」の中に消滅することによつて、芭蕉が観念する「無」の静寂観が表現されるのである。然るに宮森氏の訳では、この「や」が!の符号によつて書かれてる。外国語の!は、単なる感歎詞の符号であるから、それによつて原詩の時間的観念や実在的観念を表示することは出来ない。俳句に於ける切字の「や」は非常に豊富な内容をもつ複雑な言語であつて、外国語に於ける!の如き、単なる感歎詞の符号ではないねであるから、この点で訳が第一に不完全だと言ふのである。》

を読んで、英訳云々よりも、「古池や蛙とび込む水の音」の解釈、恒久の中に現在が消えて無となる、に“へぇ~”である。そういうことなんですか。してみると、蛙の単数論対複数論は単数論かと思う。 

古池に投げて蛙を生かしめき(攝津幸彦)

って、パロディとしてどう読めばいいのだろう?

願い事-瞑目。