「死の比喩(抜書) - 細川亮一」現代哲学の冒険①死 から

 

「死の比喩(抜書) - 細川亮一」現代哲学の冒険①死 から

我々はその特異性故に「死ぬ」という語を避け、「死ぬ」の比喩を用いる。「死ぬ」は「死去」として、「世を去る」として表象される。「去る」は他界することであり、「この世を去る」はこの世に別れを告げることである。「去る」「別れる」はまた「旅立つこと」であり、「死出の旅」である。あるいは、死は「永眠」として、「眠る」として語られる。
「死ぬ」が「去る」(旅)と眠るとされることは、プラトンソクラテスの弁明』において見られる。「つまり死ぬということは、次の二つのうちの一つなのです。あるいは全く何もない「無」といったようなもので、死んでしまえば何も少しも感じないといったものなのか、あるいはまた言い伝えにあるように、それはたましいにとって、ここの場所から他の場所へと、ちょうど場所をとりかえて、住居を移すようなことになるかなのです。そしてもしそれが、何の感覚もなくなることであって、ひとが寝て、夢ひとつ見ないような場合の、眠りのごときものであるとしたならば、死とは、びっくりするほどの儲けものであるということになるでしょう。……また他方、死というものが、ここから他の場所へ、旅に出るようなものであって、ひとは死ねば、誰でもかしこへ行くという、あの言い伝えが本当だとするならば、これよりも大きい、どんな善いことがあるでしょうか、裁判官諸君。」
この「眠り」と「旅」という同じ表象に基づきながら、ハムレットソクラテスの古代の知恵(平静さ)とは異なる近代の不安を語る。「生きる、死ぬ、それが問題だ。どちらが貴いのだろう、残酷な運命の矢弾をじっと忍ぶか、あるいは寄せ来る苦難の海に敢然と立ち向かって、闘ってその根を断ち切るか。死ぬ-眠る、それだけのことだ、しかも眠ってしまえば、みなおしまいではないか、おれたちの心の悩みも、この肉体につきまとう数知れぬ苦しみも。だとすれば、それこそ願ってもない人生の終局ではないか、死ぬ-眠る-眠る!夢をみるかもしれない、そうか、ここでつかえるのだな。この世のありとあらゆる煩いから脱れて、眠って、さてその先どんな夢を見るか、それだ、それを思うと心が鈍らずにおれぬのだ-この躊躇がこの悲惨な人生をいつまでも永びかすのだ。……生活の苦しみに打ちひしがれ、汗にまみれ呻きながらも、ただ死後のある不安、いったんその境を越えて行った旅人がまだ誰一人戻って来たためしのない、あの未知の国への不安があればこそ、おれたちの決心もにぶるのだ。」
「死ぬ」は更に失命として「命を失う」である。「命を落とす」「命を奪われる」「命を投げ出す」などにおいて「死ぬ」は命という最も大事なものを失うことである。
「死ぬ」は「去る」「眠る」「失う」として表象される。勿論これ以外に多くの「死の比喩」があるが、ここでの我々の関心事は枚挙ではなく、死の比喩に含まれている問題点を明らかにすることである。
まず、死の比喩は、死の分類ではない。死の原因(病死、焼死)、理由(殉死、情死)、ありさま(急死、変死)、場所(獄死、客死)、効果(従死、犬死に)等に即して、死は多様に分類される。死の分類の多様性は、死という現象の重大さ、我々の死への関心の強さに基づいている。一般に、ある語からなる術語の多様性はその語が示す現象への我々の関心がいかに大きいかを示している。しかし、このような死の分類の多様性は、死の比喩の多様性とは異なる。死に方の多様性にも関わらず、全ての死は「この世を去る」とも言いうるし、「永眠する」「命を失う」とも表現されうる。死の分類は、「死とは何か」について全く語っていないが、死の比喩は死ぬとはいかなることかを表現している。それは同時に生きることをどう捉えているかを示しているのである。

そのことを「死の比喩は生の比喩である」と定式化できる。このことは比喩の構造から明らかである。死を眠りとすることは、「生対死」を「目覚め対眠り」と見★すことである。死が眠り、休息であるのに対し、生は目覚め、活動である。「死=別れ」は、この生を「人と人との間を生きること」「共にあること」から捉えている。「死ぬ」を「帰る」(生寄死帰)と語る時、個としての生は生命の大海の一滴の如き、一時的な仮りのあり方なのである。そこへ帰る場所は、そこから生まれた場所である。それが「あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだからちりに帰る」と語られる場合も事態は変わらない。死が「命が尽きる」のだとすれば、生は与えられた一定の量=時間として表象され、生きるとは寿命という量を次第に使い尽くすことである。それは砂時計の比喩、或いは蝋燭の比喩(燃え尽きる)の内に表現されている。
死の比喩は、比喩としての生の内で経験される現象(去る、眠る、失う)を使用する。生の内での現象である限り、その現象はそれを償う現象を対としてもっている。「去る」(別れる)は再び我々のもとに帰ってくる(再来、再会)を可能性として含んでいる。「眠る」は目覚めを常に想定している。「失う」は「取り戻す」を対としてもっている。しかし、「死ぬ」はそれを償う対をもたないという意味で絶対的なのである。