(巻三十四) 検見衆の若きを混じえ五、六人(木原房子)

(巻三十四) 検見衆の若きを混じえ五、六人(木原房子)

 

9月19日月曜日

エキサイト・ブログの「随筆筆写」には昨日5人が訪れ、183-viewしてくれたらしい。今朝もお一人お見えになったようだ。いつ頃から筆写を始めたか見てみたら初掲載の漱石の『入社の辞』が2016年の10月になっていた。

台風が来るらしいが、穏やかな朝である。洗濯を致す。洗濯物の量は3日分だと思ったが普段の24literではなく31literと出た。洗い上がった洗濯物をハンガーに掛けたら4日分あった。やや風は強いが雨は落ちてこないのでベランダに干し、風が強まったお昼ころ取り込む。少なくとも水気は取れた。

昼寝して、散歩はせず。

筆写した作品を読み返しながら割れ煎餅と駄和菓子を楽しむ。面白い文章に巡り会いたい。

御助言大歓迎です。

 

願い事-涅槃寂滅。

死の欲動 - 春日武彦」私家版精神医学事典 から

を読んだ。

《ドイツ語でTodestrieb、死の本能と訳されることもある。フロイト1920年の論文「快楽原則の彼岸」ではじめて用いた言葉で、人を自己破壊や自己処罰、その究極としての死へ突進させてしまう悪魔的な力を指す。この概念はフロイトにおいて画期的なもので、生きることは快楽を目指すことであるといった単純な発想から「生きることは死の欲動との闘いである」といった苦く屈折した発想への転換を示すからである。

このような陰鬱な発想をフロイトにもたらしたのは、第一次世界大戦による(人類史上初の)悲惨な大量死と彼が向き合ったことに加え、彼が咽頭癌を宣告され闘病生活に入ったことが契機となっているようである。死の欲動はきわめて強大でそれに抗うことが難しく、しかも自我はその存在になかなか気づきにくい。それゆえ危険なしろものであるとフロイトは考えた。

戦争や自殺、自傷行為といった現象を説明するために死の欲動を措定したくなるのは良く分かる。切実になればなるほど死の欲動といったアイディアは妖しく輝きを帯びてくる。また、生は不安定きわまりないが死という状態は(いささかシニカルな言い方をするならば)安定の極致である。生命が安心と安定を目指すならば、それはすなわち死を目指すのと同じであるといった詭弁めいた論も成立するだろう。と、そんな調子で、死の欲動という概念にはなずかヒトを饒舌にさせるところがある。

しかし、この概念にはどこかご都合主義的な匂いもするのである。これと「生の欲動」とを上手く使い分ければ、いかなる心的現象もニュースのコメンテーターのレベルで説明が可能になってしまうのではないか。あまりにも便利過ぎるのではないだろうか。

個人的な見解を述べておくなら、死の欲動という部分のみを抽出するのはいかにも理念的であり、フェアでない。現実には、死の欲動は「生への未練」と密に混ざり合っていて、切り分けることなど不可能ではないだろうか。戦争や自殺、自傷行為さらには反復強迫といったものは純粋な破滅指向に駆動されているのではなく、どこか「拗ねる」「甘える」「自暴自棄」「居直り」「(神への)当てつけ」といったニュアンスが伴っているのが通常ではないだろうか。つまり死なずに気持の整理がつけられればそれが何よりであるといった類の心情が、胸の奥に横たわっているものではないだろうか。

そうなると、実は現状を一掃してもういちどやり直したい-いわばリセット願望とでも称すべきものこそを、心的現象を説明するための最小単位のひとつとして措定したほうが実際的ではないかと思いたくなる。リセット願望は、死の欲動と生への未練とを同時に含んだ概念という次第である。

死の欲動について興味がある読者には、まさにそのままのタイトル『死の欲動 臨床人間学ノート』(熊倉伸宏新興医学出版、2000)が示唆に富む。》

リセットについてそうなんですかねえ?と思うところあり。

「死の比喩(抜書) - 細川亮一」現代哲学の冒険①死 から

に、

《この「眠り」と「旅」という同じ表象に基づきながら、ハムレットソクラテスの古代の知恵(平静さ)とは異なる近代の不安を語る。「生きる、死ぬ、それが問題だ。どちらが貴いのだろう、残酷な運命の矢弾をじっと忍ぶか、あるいは寄せ来る苦難の海に敢然と立ち向かって、闘ってその根を断ち切るか。死ぬ-眠る、それだけのことだ、しかも眠ってしまえば、みなおしまいではないか、おれたちの心の悩みも、この肉体につきまとう数知れぬ苦しみも。だとすれば、それこそ願ってもない人生の終局ではないか、死ぬ-眠る-眠る!夢をみるかもしれない、そうか、ここでつかえるのだな。この世のありとあらゆる煩いから脱れて、眠って、さてその先どんな夢を見るか、それだ、それを思うと心が鈍らずにおれぬのだ-この躊躇がこの悲惨な人生をいつまでも永びかすのだ。……生活の苦しみに打ちひしがれ、汗にまみれ呻きながらも、ただ死後のある不安、いったんその境を越えて行った旅人がまだ誰一人戻って来たためしのない、あの未知の国への不安があればこそ、おれたちの決心もにぶるのだ。」》

と怯えについての話があるが、未練説よりはこちらの方に共感いたす。未練で死ねないのではなく、未知の死への怖れで死ねない訳さ。