「質屋について - 永井龍男」日本の名随筆別巻18質屋 から



 

「質屋について - 永井龍男」日本の名随筆別巻18質屋 から

この年になるまで、私はとうとう質屋というものの味を知らずに過ごした。今後も、もうそういうことはないだろうが、振り返ってみると、このことは私という人物にとって案外意味を持つように考えられる。
貧しい家に生まれ、幼時からずいぶん苦しい生活をしてきたものだが、地方とは違い東京の町々には質屋という商売がことのほか多く、そういう土地に暮しながら、母の代からわれわれ一家は、質屋の暖簾をくぐった経験は皆無といってよかろう。なが患いをしていた父が没したのは、私の十三歳の時で、すでにその頃生計は若い兄二人が立てていたくらいだから、月々支え切れぬ場合も多々あったに相違ないが、一家の台所を預かった母は、遂に親戚を頼ったとか質屋を利用したとか云うことはなかった。
質屋という商売も、この頃はきわめて数が減ったようで、これにはいろいろと理由のあることだろうが、戦前までの都会では、庶民の生活と切っても切れぬ関係があり、大きな役目を果たしていた。特に世の中の不況時には、朝入質したものを夕方仕事帰りに受け出すという切羽詰った利用がなされ、零細民と称された日雇労務者の多い本所深川界隈などでは、まだぬくみの残っている寝具類から鍋釜までを質草として、その朝の食事代とか電車賃に換えたものだそうだが、それほど差し迫った事情はなくても、貧窮時代に駆け込んで急場をしのいだとか、学生時代に教科書や辞書類を入質して一時の快をむさぼったというような話は、少しも珍しくはない。一度味をしめたら忘れられぬ気易さがあり、町中の質屋は一部の人々に親しみすら持たれていた。
また、質屋の入質品に対する保管のよさを信頼して、現金を入手するのが目的ではなく、虫のつき易い衣服類などを季節季節に応じて出し入れし、自分の家での手数を省くような人もあったそうだし、「女房を質に入れても」云々の古い云いならわしがいまも残っている通り、いっときの散財のために、思い切りよくこれを利用する庶民の数も多かったが、さらにまた、世智にたけた質屋の主人なり番頭なりを相手に、一と勝負するつむじ曲がりもいた。たとえば印刷活字の鋳造工が、一時流行した指輪の実印を鉛ででっち上げ、それに金メッキをほどこして入質する。こういう連中は、不当の現金をせしめるうまみの他に、いつも貸し渋りをする質屋の当事者に復讐を敢えてし、してやったりの快感が忘れられなかったようだ。
質屋の店は、町中の眼に立たぬ場所に暖簾を下げ、ひっそりとしたものであった。表通りからちょっと人通りの少ない横丁へ入り、商店の並んだ通りよりも、仕舞うた屋にまぎれて何気なく構え、客を待つといった形が定石であった。本所深川のような土地柄の場合は知らず、主として夜の商売だったのは、客が他人の眼をはばかったからで、「女房を質に入れても」の言葉の中には、質屋通いを恥じた上の無理算段だからこそ、それを誇った意味も含まれていよう。
当時、東京に少し大きな火事があると、必ずといってよいほど、焼跡に質屋の土蔵が残ったものだった。それくらい質屋の数があったという証拠にもなろうが、もし、その土蔵に火が入ったとなれば、預かり品の賠償のため倒産するようなこともしばしばあったらしく、時には暴漢の押し入ることもあり、町内の鳶職とは平素から密接な関係がつけてあった。

黙阿弥の芝居にでも出てきそうな古風な話だが、事実守れるだけしきたりを守るという気風が、この商売には根強かったらしく、質屋気質といった特別なものが、巷間に云い伝えられている。表向きは極力つましく、腰を低く暮し、奉公人などの食事は年中ひじきと油揚の煮つけばかり、ひまがあれば質草に結ぶ観世よりをよらされていたように云い触らされたものだが、内輪は充実し、それこそ隠然とした実力を蔵していた。
前言をひるがえすようになるが、二十代に一度だけ、私は質屋の内部に入ったことがある。それは、Iという新進作家が物故して、その葬式の手伝いをするためであった。Iは私より四つか五つ年上であったが、その才気を菊池寛に愛され、横光利一川端康成らの人々と並んで、当時華やかな新進作家であったが、肺を病んで夭折した。私は文藝春秋社員として葬儀の前夜から手伝いを命じられた訳だが、Iの家は神楽坂の盛り場をひかえた牛込の質屋で、息子が小説家などという浮草稼業に身を投じたことを、平素から快く思っていなかったものか、通夜から葬式にかけて、一家の態度はまことに冷やかなものであった。
十二月のことで寒さは身に染むし、番茶一杯も気楽には飲めぬようなわれわれへの扱い振りは、若くして死んだ故人にそのまま伝わりそうな侘しさで、人情にからんでは質屋などという商売は出来ぬと教えられているような気になった。Iという人が、人一倍身近に意を用い洒落者の評判があっただけに、「ひじきと油揚げ」の内輪をのぞいたような気もした。二十代の若造のことで、私の観察は皮相に違いないが、茶色にやけた古畳や、ひえびえした古廊下が、いまも記憶に残っている。
しかし、すべての質屋稼業がそういう気風の人々に占められていた訳ではもちろんない。山本周五郎の経歴を読むと、少年時代に京橋木挽町の質屋に奉公している。明治三十六年の出生で、本名は清水三十六、ここの見世から夜学へ通って勉学した。主人が物のわかった人物で助力を惜しまなかったために、一人の作家の基礎が数年の間に固まった訳で、清水三十六がいかにこれを徳としたかは、後年この主人公の本名をそのまま、山本周五郎を自分のペンネームに用いたという事実が、余すところなく物語っている。
さて、私の母が貧しい暮しを切りまわしながら、質屋の暖簾をくぐることがなかったというのは、外聞をはばかったとか見栄を重んじたとかのことではない。外聞も見栄もない長屋暮しをした上の、必死の生活術であった。一時しのぎに質屋を利用したとして、その後月々利息を払うのは当然だが、それまでは延々と利息を注ぎ込まねばならぬし、利息に詰まればみすみす質草を流してしまわねばならず、流してしまった物品をふたたび購入するのはさらに難事である。気をゆるしたら最後、そういう落し穴に落ち込まなければならぬことを、周囲の生活の中に見あきるほど見た末、ほぞを決めた生活術だったに違いない。
貧しい生活の中にも、子供の入学とか町内の祭りとかの祝いごとはめぐってくる。子煩悩の親ならば無理算段をしても正月の晴れ着を作ったりする気質が、貧しければ貧しいほどあったものだか。私の母は一切そういうことには眼をつむり、質とか借金とかを拒否し続けた。落し穴を避けるためには、子供たちにもたのしみを捨てさせて省みなかった。
祭りをたのしくむかえるために、一と張りの蚊帳を入れ質したとして、そのため一夏蚊に攻めまくられような生活があっても、子は決して親を軽んじはしまいし、その辺に親子の情が濃く通うものだろう。
少年時から生計の稼ぎ手だった長兄が、私よりさらに母の生活術に影響をうけ、成人して以来、どんな苦しい場合も借金という方法を用いることはなかった。わが身を食むように家の中を切り詰めて急場をしのいだ。一生のほとんどがそういうものだった。他人に迷惑をかけぬということをひそかに誇りとし、一家のために自己を犠牲にした長兄を見るのは、居たたまれぬ思いであったが、さらに自分を振り返る年齢に達してからは、そういう私自身に母の感化の執拗さを感じる。幼少時の生活は、一人の人間に強い影響力を持つのである。
貧しいということは決して恥ずべきではなく、貧しさに負けることを恥じとすべきはずが、わが一家は貧しさに負けまいとして金銭を怖れ通した。この頃そんなふうに考える。