「夜長 - 楠本憲吉」日本の名随筆72夜 から

 

「夜長 - 楠本憲吉」日本の名随筆72夜 から

秋たけなわの頃は、旧暦でいうと「長月」である。
こうした月の古名を、そのまま現在の暦に当てはめるのを、私はあまり好まない。つまり、その古月にたずさわっている季節感が、およそ一カ月ほどずれてしまって、言葉の味わいというものが、ほとんど薄れてしまうからだ。
従って、私にとって「長月」とは、あくまで旧暦九月の呼称であり、決して今の九月ではない。季節感としては仲秋の侯である。
閑話休題-、九月は他の月に比べて特に日数が多いわけでもなく、むしろ「小の月」で三十日しかないのに、なぜ「長い月」というのだろうか。
月の古名は、『日本書紀』に「春正月[むつき]」とあり、『万葉集』にもそれらの文字がすでに見えるので、かなり古い時代からあり、当然、「長月」も用いられていたと思われるが、当初はまさしく「意に介さず」 - 『どうしてそう呼ぶのか』というよりも、まず用いることが先決だったようである。
一説によると、「長月」の意の出典は、平安時代の長徳四年(九九八年)頃に陽の目を見た『拾遺和歌集』の中の問答歌で、
夜昼の数はみそぢにあまらぬを、など長月といひ初めけん
答に、
秋ふかみ恋する人のあかしかね、夜をながつきといふにやあるらん
とある。つまら、
「夜と昼の数は三十日しかないのに、なぜ長月というのか」
という問に対して、
「秋も次第に深くなって、夜の時間が長くなってくると、恋をしている人間のくるのが待ち遠しい。それで夜の長いことに寄せて長月というのだろう」
と答えたものだが、「長月」の意はこれを原点として後世に伝わったとされている。要するに「長月」は「夜長月」の略であり、「夜の時間が長い月」の意だというわけだ。
俳句にも「夜長」という仲秋の頃の時候季語があり、
一灯を残し夜長の仕事終ふ(虚子)
暮れてまた夜長を如何にせむと思ふ(湘子)
という風に用いて一句をものにする。
しかし、考えてみれば、実際に夜が長いのは冬で、決して秋ではない。それを承知の上であえて「秋は夜長だ」としているのは、『拾遺和歌集』の問答歌とは全く別の次元における俳人ならではの感覚的解釈、並々ならぬ才覚というものであろう。
夏の夜は訪れるのが遅く、夜明けもすこぶる早い。いわゆる「短夜」で、この「短夜」の直後だけに、秋-ことに彼岸を過ぎると、夜の長くなっている様子がことさらに感じられるわけだ。
江戸時代の文化年間に編纂された『改正月令博物筌』という当時の百科辞典にも、
夜の至りて長きは冬なるに、長き夜を秋の季とするは、夏の夜のあまりに短きに、この月はただちに長くおぼゆる故なるべし
とある。
つまるところ、俳句の世界の「夜長」は、事実語ではなく感覚語であり、「日永」を春の季語として用いているのも同じ意味からである。実際に日が長いのは「短夜」の言葉がある夏なのだが、春は「短日」の冬のすぐあとだけに、「日脚伸ぶ」がひときわ感じられるからだ。
ところで、「長月」は「夜長月」の略だとする説に異論を唱えた人物がいる。江戸時代の国学者賀茂真淵で、彼は、
「夜が長いから長月というなら、別に九月だけとは限らないのではないか。これは“稲刈月[いながりづき]”の上下を略して“なが月”といったのだ」
と説いているが、私はこの意見に興味を覚えるのである。
たとえば「睦月」は「正月になると、家族が一堂に会して、和やかに睦まじく、楽しい日を送る」というところから起こった「むつみ(古語ではむつび)月」が訛ったのではなく、「種籾を苗代へ播くために生[む]す月」-即ち「芽が生じやすいように浸す月」が詰ったもの……というように、日本の古名は、すべて稲作と関わり合いがあるのではないか、とかねがね考えていたからである。
古来、日本人の死活の決め手は米-。従って、昔の人々が、それを生産する稲作の作業手順を月々の呼称に当てはめて、生活の目安にしたとしても、決して不思議なことではない。
因みに、外国のSEPTEMBERも「収穫月」ということであり、もともとは「大麦月」という意をこめた言葉であった。