「タナトスのラーメン・きじょっぱいということ - 千葉雅也」ずる、ずるラーメン から

 

 

タナトスのラーメン・きじょっぱいということ - 千葉雅也」ずる、ずるラーメン から

酒を飲んだ後になぜラーメンを食いたくなるかということについて、様々になされている科学風の説明は措くとして、僕は最近、あれは一種の「死の欲動」の発露ではないかと考えている。さんざん酔っ払うというのは、死に近づくことである。自殺ごっこである。生きて考える、生きるために考えることをどうでもよくする。そして、締めのラーメンを食べ、満足して、眠る。さんざん飲んでラーメンで締めてそしてベッドに倒れ、仮死状態になる。ラーメンは、何を締めるというのか。生を締めるのである。あるいは、性を。新宿二丁目中通りに面して在る、相当にしょっぱい味噌ラーメンを出す店が、気に入っている。スープがどんぶりの縁まで充ち満ちて巨大な味噌汁のようであり、わずかなネギとメンマ、小ぶりのチャーシューが中心に狭く島を成している。僕は、単純に強いしょっぱさに圧倒される。旨みのハーモニーはどうでもよい。きじょっぱいだけであるもの。きじょっぱさによる痛打。きじょっぱさの海に、倒し落とされたいのだ。きじょっぱさの「死海」に倒し落とされ、塩漬けになる=仮死になるのである。
自分を塩漬け肉にする。生ハムになって眠るのだ、あの頃の若さで。
アンチエイジングとは、自分を塩漬けにすることである。
東京から大阪に移住して三年目になるけれども、納得のいくラーメンはみつけられていない。大阪のラーメンには、独特の甘みがある。砂糖を足しているのかと訝しむほどである。「からさ」の角を丸めている。僕は、西日本における「からい」の用法に今でも慣れていないし、慣れるのを拒否したいとさえ思う。塩「からい」のは、僕にとっては〈しょっぱいという固有の概念〉でなければならないのであって、言葉において=象徴的に、象徴的に(塩からい)を、唐辛子による「からい」にオーバーラップさせることなど、許容できはしない。ピリピリして発汗する「からい」は、僕にとっては、遥かなる南の(また、大陸の)事柄-対岸の火事-であり、対して、しょっぱいという質は、いや、きじょっぱいという質は、僕の生地である北関東に連合されている。単純に鋭角なるきじょっぱさは、僕の一八歳までの日々を、まさしく塩漬けにしている。結晶化しているのだ。塩漬けで維持された少年時代を溶かしたかのようなスープを舐める-新宿二丁目の午前二時、少年時代のループとしてのきじょっぱいスープという死海において、自殺ごっこをしている。
死の欲動タナトスとしての、塩漬けになること。無機物になること。逆に、甘みを欲するのは「生の欲動」ではなかろうか。糖の、脂肪分の甘み(母乳の)。甘みのエロスとしょっぱさのタナトスを対置してみる。食事というものは、広義に「あまじょっぱい」ものだ。甘みのある穀類を、塩気(と甘み)のあるおかずと一緒に食べるのだから。あまじょっぱい、それは、生と死の、有機と無機の、エロスとタナトスの往還に他ならない。食事は、死に近づこうとする自己破壊の実験でもある。満腹になって眠くなる(あるいは、セックスをして眠くなる)。満腹になって仮死状態になる。食事は、生きて考える持続を中断することである。生きて考えることに疲れ、倒れ込むようにしてなされる食事は、実質的にエネルギーの回復であっても、形式的・儀式的には、死のシミュレーションでありうる。労働の後で、もういい、もうだめだと、食事に倒れ込むのである。逆に、食事を死のシミュレーションにしない=生の持続をそのまま延長するためには、食べすぎてはいけない、つまり、眠くならないように調整する(労働の前の少しの朝食、労働の途中に補給する糖)。
大阪にいて僕は、タナトスのラーメンを懐かしくおもわざるをえない。大阪のB級グルメは甘みの芸である。ソース味のたこやき、お好み焼き、油の甘みに包まれた串揚げ……驚いたことに、カレーもすこぶる甘い(有名な「インデアンカレー」の、子供向けのような甘さと、スパイスの「からさ」の並立)。他方、きじょっぱいというのも、上品でないどころか鄙びているわけであり、とすれば、甘みの=エロスにB級グルメに対比して、僕は、しょっぱさの=タナトスのB級グルメをめぐる愛憎を語っていることになろう(両者のあいだに混交したケースがあることはもちろんあるけれども)。甘塩で脂っぽい鮭ではなく、塩辛のパサパサした鮭に投票すること。
東京に行くたびに、タナトスのラーメンを確かめようとする。自分を無機物の破片にする(北)関東的な否定性、としてのきじょっぱさに圧倒されようとする。尻上がりの否定性-としてのきじょっぱさ。年末には、東海道新幹線から東北新幹線に乗り継いで、宇都宮に帰省した。大宮から乗ってきた中年男性が満員の車内を見るや否や「だーめだ」と尻上がりに吐き捨てる。鼻をかんだディッシュでも放り投げるようなその「だ」の諦念は、深さにおいて東北の地霊に完敗しており、速度において首都を羨望するしかない北関東の中途半端さ、それゆえの消極性が、僕においても塩漬けになっていることをただちに意識させたのだった。きじょっぱいラーメンのスープを舌頭でループさせて僕は、塩漬けにされたあの頃の破片を、僕自身のなかに吐き捨てる-や否や、啜り直すのでありそしてふたたび、塩漬けにするのだ。