(巻三十五)匙投げしやうにも見えて枯蓮田(能村研三)

(巻三十五)匙投げしやうにも見えて枯蓮田(能村研三)

12月1日木曜日

曇り空の朝です。昨晩タイツと長袖を着たが正解だった。ブログ日記によればこの時期で掛布団を二枚にした年もあったようだが、もう少し一枚にしておこう。

朝家事は特になし。細君は生協に行き寒い寒いと戻ってきた。冬用厚手のジャンパーを着て買い残しのじゃが、玉、みかんを買いに出かけた。寒い‼待っていし今日の寒さでありにけり(ほりもとちか)

昼飯食って、一息入れてからクリニックにインフルエンザの予防注射に行った。今年は無料だ。クリニックは特段混んではいなかったが呼び込みまで1時間半近く待つことになった。麻雀をしながら待ったが電池残量が60%を切るところまで落ちた。

隣りの椅子では爺さんと四十代の女性のペアが順番待ちをしていた。話ぶりから父と娘とか云う関係ではなく、福祉関係の介助員と年寄りといった感じで女性は雰囲気も装いも実に地味であった。疲れた野球帽を被った爺さんの身なりも大したことはない。爺さんは能弁で女性が調子を合わせているといった様子だ。爺さんの話ぶりに暗さはなかったが、爺さんの吐いた「今頃は左団扇の筈だったんだがなあ。家をとられちゃて。」とそれに返された「でも、息子さんがかわいいでしょ?」と云う会話が耳に入った。どんな物語があったのだろう。

子の背広買ふ歳晩のまばゆき中(福田甲子雄)

やっと呼ばれて、プチっと射たれておしまい。証明書を貰ってクリニックを出たのは5時近かった。そばの7ELEVENで珈琲を喫して帰宅。襟巻きだ、防寒は襟巻きが決め手だ‼

猫はクロちゃんに二袋。サンちゃんとフジちゃんは寄り添ってバイクカバーの中で寝ていた。猫たちにもつらい季節がやって来た。

願い事-涅槃寂滅です。静かに消してください。物語は要りません。

毛虫落つそこに始まる物語(小泉八重子)

昨日は「タナトスのラーメン・きじょっぱいということ - 千葉雅也」を読んだ。タナトス=塩辛さ、エロス=甘さで食事はエロスの穀類とタナトスのおかずとの往還だとする御説は興味深い。更に興味深いのが北関東者のイジケか?確かに尻上がりの語尾は独特だなあ。しりあがり寿氏も北関東者かと調べたら、氏は静岡市のご出身だった。

北関東者というと在庫ではではなんと言ってもこの方だ‼

「いろんな人 - 出久根達郎」文春文庫 95年版ベスト・エッセイ集 から

ポン引きに誘われて、宇都宮から足尾の銅山まで山越えの途中、赤い毛布をかぶった男と道づれになる。男は「茨城か何かの田舎もので、鼻から逃げる妙な発音をする。」「この芋はええエモだ」などと言う。

とは、漱石作『坑夫』のひとくだりだが、まさしく私がその「茨城か何かの田舎もの」で、赤毛布[あかげつと]こそかぶらなかったが、似たようないでたちにて東京へ出てきた。

やっぱり「鼻から逃げる妙な発音」をしていて、皆に笑われた。笑われているうちはよかった。相手を怒らせてしまったことがある。

古本屋の小僧になって、まもないころ、本を買ってくれた中年の男性が、ふいに、それこそ全く突然、どなりだしたのである。

「君の態度は客に対してなっていない。客を見下している。非常に無礼だ。つつしみたまえ」とまくしたてた。

私はあっけにとられてしまった。相手の言い分が理解できない。客を軽蔑するような物言いも、動作もしなかったはずである。ごく普通に「ありがとうございました」と礼を述べて、軽く頭を下げただけである。頭の下げ方が浅すぎるというのだろうか。

しかし商人に口答えは禁物である。釈然としないまま、私はわびを言い、深々と叩頭[こうとう]した。客がいきなり声を荒らげたわけは、じき判明した。

店番をしている私に、番頭さんが出先から電話をよこしたのである。

「君、そうツンケンしなさんな」と番頭さんが用件を伝えたあとで、急に語調を変えた。

「それと、ぶっきらぼうな話し方を改めなさい。どうも君のしゃべり方は、横柄で耳ざわりだ。お客さまが気を悪くするよ」

悪くしたのである。

要するに、「妙な発音」のなせるわざであった。のちに知ったのだが、わが故郷を含む北関東一帯は、言語学者にいわせると、有名な無敬語地域なのだそうである。老若の男女が、ほとんど対等で話している。敬語表現がないのだ。おまけに語尾が高くあがるイントネーションなので、慣れない人が聞くと、馬鹿にされたように聞こえるらしい。

商人には不適な訛りということになる。

早く東京弁になれなくちゃいけないよ、と番頭さんにさとされた。

私にとって、お国訛を茶化されるより、しゃべると、人が気を損じるということの方が、悲しく恐ろしかった。私は次第に無口になった。

これではいけない、と気をとり直した。私は一人前の商人にならねばならぬ。

商店街のはずれに、「話し方教室」の看板を見つけた。閉店後、ひそかにおとずれた。

出てきた教師をみたとたん、私は赤面した。

ときどき店に来る客だったのである。古い翻訳書を買う中年の人で、私が礼を述べるとと、必ず「どういたしまして」と答えるのだった。それが、どこの地方か凄い訛なのである。

その人が話し方の教師だというのだから、驚くわけだった。顔を見て、まさか、やめますとも言えない。私は入門の動機を語った。

ぼくは訛の矯正はしないよ、と相手が笑った。自分がご覧の通りだしね、と悪びれない。気の利いた会話の仕方、話題の見つけ方、等を教えるんだよ、と説明し、

東京弁を習いたいそうだけど、東京弁なんてちまらないよ。大体、江戸っ子の言葉遣いそのものが汚くてね。あなたは歌舞伎を見たことがある?」

ない、と答えると、いきなり声色を使いだした。

「わしてごんす。何ときついものか、大門へぬっと面をだすと、仲の町の両側から、近づきの女郎の吸付煙管[キセル]の雨が降るようだわ。とこれが伊達男の助六のセリフ。弱い奴ならよけて通し、強い奴なら向うづら、韋駄天が革羽織で鬼鹿毛[おにかげ]に乗ってこようとも、びくともするのじゃごぜえやせん。とこちらは侠客の幡髄院長兵衛」

「お上手ですねえ」世辞でなく感心した。

「なあに、これも商売道具のひとつでね」と照れた。「お聞きのように、ね、ちっとも粋じゃないでしょう?野暮ったい。だからいいんです。人間くさいんです。折角の訛を捨てる人がありますか?」と私よりひどい訛でさとされた。中条さん、といった。私は店が終ると中条さん宅に遊びにうかがった。話し方教室は開店休業状態だった。中条さんは外国の地名人名を、明治の人がいかに苦心して漢字にあてたか、その研究をしていた。

「これは人名だが読めますか。この愛恩斯担は、アインシュタインです。この和馬はホーマー。ギリシャの詩人ホメロスです。ではこれ、わかりますか?」そう言って、『冷忍』と書いた。「レーニン。ね、昔の人は単に手近の漢字を安易にあてたのではない、とわかるでしょう?」得意気に鼻をうごめかした。

中条さんは、この研究をもう三十年も続けていると語った。学者になるつもりではなく、金のためでもない。好きだから続けている、と笑った。

東京には、いろんな人がいるものだ、と私は感嘆これ久しゅうした。