「葬式 - 北杜夫」日本の名随筆別巻47冗談 から

 

「葬式 - 北杜夫」日本の名随筆別巻47冗談 から

いきなり縁起でもないことから書きだすようだが、死というものは人生の極限であり、誰でも免かれぬことばかりでなく、私たちは自分が死なずとも肉親、知人の死にやむを得ず立ち会わねばならないものだからである。
先頃、梅原龍三郎氏が亡くなり、
「葬式無用。弔問 供物 固辞する事。生者は死者の為に煩わさるべからず」
という自筆の遺言状が残されていたと報じられた。
これこれ、私の母がしょっちゅう言っていたことであった。
母は昭和五十九年の十二月に死んだが、初夏の候、七月頃まではまだ私の家に夕食を食べに来ていた。以前は母は無類のセッカチであったから、贔屓にしている私の娘、孫の顔を見に来ても、十分ほどで帰って行ってしまったものだが、さすが齢をとってからは孫と夕食を共にしてゆっくりして行くようになった。世間の人が「痛快婆ちゃま」などと称した母も、老人現象で同じことを繰返すことが目立ってきた。その反復する言葉の中でも、いちばん多いのは自分の死についてのことである。
もっとも母は、もう十何年も前から、
「あたし、飛行機事故でさっぱりと死にたいわ」
と言うのが口癖であった。それに対し、兄や私は、
「お母さまはそれでサバサバなさるでしょうけど、うっかり僻地で死なれたら遺体を引取りに行くのも大変ですよ」
などと応じていた。
それが、母も八十九歳にもなり、実際に体の衰えも目立つようになると、その口癖が頻繁となった。
「あたしはヨイヨイになって他人に迷惑をかけてまで生きたくはないわ、なんとかしてサッパリと死ねないものでしょうかねえ」
「お葬式もやって欲しくありません。あんな人迷惑なことはありません。だって、忙しい方々が無理をしていらっしゃるのがほんとんどよ。大半は義理でいらっしゃるのよ」
私は次男坊で、有体[ありてい]に言って責任が二の次でいられる身の上である。しかし、長男である兄は世間体からも、いくら母がそう言ったからといって、葬式なしでは済まされないであろう。
そこで私は、無宗教の葬式を母に進言しておいた。志賀直哉先生のお葬式がそれで、ピアノの演奏と献花だけで、まことにすがすがしい思いがしたからである。
「あら、それならまだいいわね」
と母は言ったが、次にはすぐ老人性反復症が始まって、
「あなたたち、お婆ちゃまはね、これ以上もう長生きしたくありませんからね」
と繰返すのであった。
母が男まさりのカラリとした性格であったことは、子供として実に有難いことであったと今更ながら思う。何と言っても老齢で、もうそんなに先は長くあるまいと私も思っていたことだから、もしも母の口からジメジメした言葉でも聞かされていたなら、私はきっとたまらない気持になっていただろう。
私はユーモアは人類の持つ最大の長所の一つと思っているし、この世には茶化したりしてはいけない深遠な部分があることも承知してはいるが、体質的に物事を殊さら重々しくいかめしくあつかい考えることは嫌いである。今、体質的にと書いたが、ユーモア、つまりフモールというギリシャ語の原義は体液という意味である。もちろんこの世には真面目に処さねばならぬことは多々あるが、私はそういう深刻な事柄を前にして、そんなしかめ面をするな、みんながものものしげに腕を組むことは軽くあつかえ、みんなが眉をひそめていることならいっそ笑え、という信念を抱いている。これを不真面目と叱ってくださってもいい。しかし、動脈硬化を起したかたくななバカ真面目精神よりも、それはいっそこの世に生気を吹きこんでくれる場合もあるのである。

母に無宗教の葬式をすすめた私は、自分の場合ももちろん無宗教でしようとずっと前から考えていた。それで、
「おれの葬式は無宗教にする。高い花は要らん。栽培された花よりおれは野に咲く花が好きだからな。タンポポがいい。タンポポがなければ、ペンペン草でも何でもいい。ただ、音楽は何にしようかな、なにしろおれは極めつけの音痴だ。そうだ、マーラー。あの『ベニスに死す』の映画のときのマーラーの曲にしてくれ」
すると、私の妻は、
「それならいっそ、株式の短波実況放送にしたら」
と言った。
私は九年前の躁病のとき、闇雲に株を買いだし、それも信用取引きで、早朝から短波放送を聞き、「○○が六百八十円、八十三円、更に八十五円とつけました」などと聞くと、矢も盾もかなわずその銘柄を買い、ほとんどが高値掴みで見事に破産してしまったことがある。以来、躁病になるたびに株を買い、そのたびに大損害をする。私が株さえしなければわが家はまあ食べてゆくには困らぬ金があったから、株は妻にとってはいわば不倶戴天の敵である。しかし、妻にはいくらかユーモアもあり、また私が実際に死んでしまったなら、いくら株式放送を聞かせてももはや株を買えないから、安心してそう言ったのであろう。
それを聞いて、私はハタと膝を打った。
「株式放送。それはいい。あれは活気があっていいものだ。音痴のおれの葬式にはふさわしいかも知れんなあ」
もっとも、株式実況は無類の早口で、活気がありすぎるからこそ、私はこれまで大損をしてきたのである。
十二月にはいって、ずっと入院していた母は危篤状態に陥った。そのとき、私は兄に、無宗教の葬儀に母が賛成していたこと、母は特に信仰を持っていないからそれが良くはないかと打明けた。
兄はすぐ賛成してくれた。そればかりか、本当なら母の骨は粉にして海に流してやりたいが、日本の法律では禁じられているから不可能だと冗談まで言った。
母の葬儀は、簡潔な無宗教で行われた。しかし、無宗教の葬式は少ないので、あとで兄に聞いたところによると、祭壇の設計その他然るべき人に頼んだので、ふつうの仏式よりもかえって費用がかかったそうである。
それでも、母がしつこく申訳ないことだとこだわっていた来会の方々から、
「いかにもお母さまらしいお葬式でした」
と言われて、私は心底から嬉しかったのである。