(巻三十五)手から手へ投げては船に西瓜積む(濱永育治)

(巻三十五)手から手へ投げては船に西瓜積む(濱永育治)

12月2日金曜日

朝、5時頃喉が痛く目覚めた。風邪、否コロナ!と、ギクッとしたが空気が乾燥しているための喉痛のようで予て用意の飴玉を含んだら痛みが消えた。

誰もみなはじめは風邪と思ふらし(加藤静夫)

空気が乾燥していると良いこともあり、部屋干しの洗濯物がしっかり乾いていた。

良いことと言えば、

竜の玉予期せぬ方へ弾みけり(長谷川守可)

朝家事は掃除機がけと洗濯。襟巻きを出した。

昼飯食って、一息入れてから散歩に出かけた。図書館で返却したあとカツカレーで一杯やろうと西亀有の「おぢや」を目指した。店に着くとご覧の通り一寸不在のお知らせがあったので近所を散策しアパートの軒先の干し柿なんぞを眺めて戻るとちょうど親爺が戻ってきた。税務署に呼び出されたとかでハアハア息があがっている。取りあえずカウンターに座りカツカレーをお願いしたら、ルーをあたためるのに時間がかかるので味噌カツにしてくれという。カツカレーが食いたくて20分歩いてきたのだから、カツカレーが食いたかった。じゃまた来ますよ、と今日は諦めて店を出た。

駅前に回り、3時前でも店を開いている串焼き本舗で軽く飲んでバスで戻り、図書館で4冊借りて帰宅。

串焼き本舗は安いが、さみしくなるような小さな肉だ。

今日借りた4冊のうち3冊はハズレだった。当たりというか読んでみることにしたのは「法学教室11月号」で『「セックスワークにも給付金を」訴訟第一審判決』、『給水停止による損害賠償責任を免責する条項』、『不作為による放火罪の成否と作為との同価値性判断』と判例解説が面白そうだ。

猫たち:図書館前で久しぶりに友ちゃんに会う。覚えていてくれて足下まで来てくれた。一袋。笠間稲荷のコンちゃんに一袋。都住3のクロちゃんに二袋。サンちゃんフジちゃんはバイクカバーの寝床から起き上がらず。腹が一杯なのだろう。

願い事-涅槃寂滅です。

吊し柿こんな終りもあるかしら(恩田侑布子)

干し柿的に逝くのは時間がかかりそうだな。

一枚の落葉となりて昏睡す(野見山朱鳥)

と昏睡してしまうのがいい。

北杜夫氏の斎藤茂吉夫人の話を読んだので、合わせて斎藤茂太氏の書いた茂吉最晩年を読んでみた。

「茂吉と酒(齋藤茂吉氏のこと) - 齋藤茂太」中公文庫 「酒」と作家たち から

父茂吉は死ぬ二年前のある日、私を枕もとに呼び、俺の仕事はもう終った、最悪の場合を考えていればよい、と言った。その頃、時々心臓発作を起こし、また左半身不全麻痺もあったから、父一流の用心深さで、少し早めに私共に警告を発したのであろう。

最後の歌集『つきかげ』に「暁の薄明に死をおもふことあり除外例なき死といへるもの」という歌がある。昭和二十五年の作である。

また「黄卵を味噌汁に入れし朝がれひあと幾とせかつづかむとする」などという歌もある。朝食の味噌汁に卵を入れるのはなが年つづいた父の習慣だったが、この方式があと幾年つづくだろうか、という晩年の感慨だ。

そして昭和二十八年二月二十五日が来る。

その頃、雪が降ると、必ず状態が悪化した。二月は父にとって好ましくない月であった。二月二十一日から二十二日にかけて大雪が降った。二十五日朝、私は講師をしていた医大へ出勤した。午前十一時に電話がかかった。父の容態急変の報せだった。すぐに帰宅したが父はすでに死んでいた。

何の苦悶もなく、呼吸もいつ停まったか分からなかったそうである。二日前に看護婦が髪とひげの手入れをしたので美しい顔をしていた。

東大にお願いした解剖結果は高度の動脈硬化症を中心とした老衰で、父は自己の肉体をとことんまで使い果たして死んだのである。「子規の晩年は実にぎりぎりのところまでその生を無駄なく使った」と父は書いているが、その父自身もやはり同様であった。

七十歳九カ月であった。

ところで、父がウチで酒を飲んでいる姿を私はあまり記憶していない。お弟子さんや親しい人を呼んで、よくトロロ会などやったが、そういうときはむろん酒がテーブルの上に置かれていた。しかし父がひとりで食事をしているときはまず酒はなかった。

父は十五歳でわが家に来て、旧制一高を卒業した時点で正式の養子になり、東大医科を卒業したあと私の母輝子と結婚している。つまり養子としての遠慮があり、酒をたしなむのも主に外でやったのも分かるような気がする。事実学生時代、よく白山の馬肉屋に立ち寄ったとか、卒業して東京府巣鴨病院(いまの都立松沢病院の前身)で精神科を専攻している頃もよく白山あたりで「遊んだ」と同病院の医局日誌にあるから、父の酒は主として「外」で飲まれたようだ。文学仲間と会うのも、自宅よりも巣鴨病院の当直の夜を選んだ。牧水、白秋、夕暮、阿部次郎、尾山篤二郎等が巣鴨病院を訪れている。

父の肌は一種のぬめりを帯びていた。手と足にはたえずあぶらがういていた。父の体臭は極めて特徴のあるものだった。父の死後、病室には長い間、父の臭いが漂っていた。そして好んだ食べ物もまたぬめりのあるものだった。ウナギ、トロロ、ナメコ、サトイモ、ワラビ等々だった。中でも最大の好物はウナギで、ウナギを食べると、ものの数分で、樹木の緑が鮮やかにみえるなどと理くつに合わぬことを言った。山形ではウナギの蒲焼に酒をかけて食べる人が多いが、父もそのやりかたで食べることがあった。

父の大親友の一人が歌人の中村憲吉である。関東大震災のとき、ミュンヘンに留学中の父あてに当時毎日新聞記者だった憲吉は「ユア・ファミリー・フレンズ・セーフ」という電報を打ってくれた。いつか広島県布野[ふの]に憲吉未亡人を訪ねたとき、「升[ます]の井」というお酒をいただいたが、これは以前中村家が自家醸造をしていた頃は「萩の露」といったものだそうである。憲吉はいわずと知れた大酒豪であった。戦前青山の自宅にいたシゲという老女中が、憲吉先生がお泊りになったときは朝から茶碗酒を召し上った、と言っていたことを思い出した。

未亡人が酒の肴づくりの名人であることを父は半ば羨望をこめて私共に話したものだが、夫人は、酒好きのそばにいると仕方なしにこうなるのよ、と言われた。憲吉が小売りのカメの酒をしばしばコップですくって飲むのを夫人が注意すると、憲吉は「わかっております」と切り口上で答え答えしたそうだ。

先年尾道で憲吉終焉(昭和九年)の家をみることができた。夫人もすでにこの世の人ではない。

人間、老年になると抑制がとれる。宿命といっていい。痴呆のきた姑はたいてい嫁を敵視する。はては嫁を泥棒扱いする。なるほど嫁は、だいじなだいじな息子をとった憎い女である。ふだんは抑制がきいているから表面的には嫁とうまくやっている。それが痴呆がきて物忘れがひどくなると、嫁が部屋に入ってくる度に何かなくなると嫁を泥棒扱いにする被害妄想が出てくる。

父は晩年、私が酒を飲んでいると、だまって私の酒をとりあげて、自らの口に流しこむようになった。家内が心配して、お父さまの前では飲まないで、と言った。ウチではあまり飲まないという「抑制」がとれたのだろう。私は父に「自由」がもどってきたのだと思った。

新しいことを忘れ、古いことをよく憶えているという老化現象を神はよくぞお与え下さったものだと思う。それが周囲の者はともかく、老人にとって、それは幸福につながると思うからだ。