丸谷『文章読本』第八章イメージと論理、引用名文、堀口大學 「挨拶文」から

謹啓愈々御清栄賀し上げます。長城堀口九萬一死去の際は、早速懇篤な御弔詞とお供物を賜はり有難うございました。恭しく霊前に供へさせて戴きました。御承知のやうに元気な人でしたが、風邪心地でほんの四五日臥床しているうちに、流星の速さで衰弱し、何の苦痛もなく忽然他界いたしたのでした。枯木の朽ち折れるやうな、見るからに安楽な往生でした。十余日連続の県内巡回講演旅行から、機嫌よく帰宅して十二日目、十月卅一日夕六時の出来事です。昨年十一月興津の小生假寓へ東京から疎開、本年七月小生等と共に當所へ再疎開、その間五月廿五日東京久世山の家滅失、今夏は例年の如く大湯温泉に避暑、読書と散歩三昧の百余日を過したのでした。葬儀は十一月四日、紅葉にうもるる當所で、ダビに付しました。黒土の道をささやかな葬列を、妙高山がじつと何時までも見送つて呉れました。遺骨は長岡市長興寺と東京府中加教墓地とに分納いたすことにしています。八十一歳の生涯でした。書巻は一日もつひに放さず、最後は陸放翁の詩集を読んでおりました。山重水複疑無路。柳暗花明又一村。と、かう、口ずさびながら瞑目したのではないかと思ひます。本日、健剛院
至道一公居士が中陰に當り、ここに粗葉を呈し、故人在世中に賜つた並々ならぬ御厚誼を深謝いたすと共に、今後不肖に対する御教導と御鞭撻とを伏してお願ひ致す次第です。
敬具

昭和二十年十二月十八日
嗣子 堀口大學