(巻十三)帰り来て上着そのほか定位置に戻してやればうれしさうなり(寺松滋文)

11月26日土曜日

「発心集」に手をつけてみた。先ずは現代語訳を読んでいるが、それとてなかなか解らない。

“発心集 序
心の扱いの難さ
仏が教えて下さったことがある。
「心の師とはなるとも、心を師としてはいけない」と。
本当にその通りだ。まさに至言だ。
人は一生を過ごす間に、思いと思うこと、悪業でないものは一つもない。”
で序は始まっています。自宅で時間のあるときに、まずは現代語訳を筆写しながら、ゆっくりと読んで参ろう。

朝の家事手伝いのあと、柏の名医のところでインフルエンザの予防接種を受けた。今年はインフルエンザが流行るとのことだが、接種を受ける人で混んでいた。
問診票には接種により発生するかもしれない病気や障害が網羅されていて、“あなたはこう言うことを承知のうえ、自らの意思で接種を受けたのですよ。”となっている。

手術同意書に署名して十二月(中岡毅雄)

そんなことをコチコチと打ちながら、庄屋で海鮮丼をつまみに昼酒(今日は初孫)をしていたら、向かいの席に初老二人が座った。沁々とした話をしている。話から年齢は60歳から65歳の間のようだ。一人は定年で職を退いたサラリーマンのようである。年金のハザマで無収入のようだ。他の一人は公的年金等の制度に詳しいようで色々と蘊蓄を傾けているが、無収入のご仁の具体的な助けにはなっていない。
無のご仁は元は其なりの職にあったようで“ローンは片付けた。”などぼそぼそと言葉を返していた。お住まいはバブルの頃のブランド団地のようであるが会話の端々に“廃墟”という厳しい言葉が響く。
二人の話は昔の会社の人事に至り、誰々が部長であった、俺は何々であったお前は大阪にいたなあ。阪神淡路島の地震のときは誰に仕えていたとか、そう言う話に戻りながら余裕のありそうな蘊蓄が珈琲を頼んだ。
そのあとは、昔の人事話と営業の自慢話になってきて、とどの詰まりは“今だから話そう”の社内ゴシップとなった。心が安らぐ話はやはりそこいら辺りに落ち着くようだ。

老二人花橘に酔泣きす(加舎白雄)

凩れるや組織憧れる老二人(潤)