「永井荷風 墨東綺譚」 30頁 *“ぼく”という変換字なしのため便宜“墨”

わたくしは脚下の暗くなるまで石の上に腰をかけていたが、土手下の窓々にも灯がついて、むさくるしい二階の内がすつかり見下されるやうになつたので、草の間に残つた人の足跡をつたつて土手を降りた。すると意外にも、其處はもう玉の井の盛場を斜めに貫く繁華な横町の半程で、ごたごた建て連つた商店の間の路地口には「ぬけられます」とか、「安全通路」とか、「京成バス近道」とか、或は「オトメ街」或は「賑本通(にぎわひほんどおり)」など書いた灯がついている。
大分その邉を歩いた後、わたくしは郵便箱の立つてある路地口の煙草屋で、煙草を買ひ、五圓札の剰銭(つり)を待つていた時である。突然、「降つてくるよ。」と叫びながら、白い上ッ張を着た男が向側のおでん屋らしい暖簾のかげにかけ込むのを見た。つづいて割烹着の女や通りがかりの人がばたばたかけ出す。あたりが俄に物気立つかと見る間もなく、吹落る疾風によしず(漢字)や何かの倒れる音がして、紙屑と塵芥(ごみ)とが物の怪(もののく)のやうに道の上を走つて行く。やがて稲妻が鋭く閃き、ゆるやかな雷(らい)の響につれて、ポツリポツリと大きな雨の粒が落ちて来た。あれほど好く晴れた夕方の天気はいつの間にか變つてしまつたのである。
わたくしは多年の習慣で、傘を持たずに門を出ることは滅多にない。いくら晴れていても入梅中のことなので、其日も無論傘と風呂敷とだけは手にしていたから、さして驚きもせず、静にひろげる傘の下から空と町のさまとを見ながら歩きかけると、いきなり後方(うしろ)から、「壇那、そこまで入れてつてよ。」といひさま、傘の下に眞白な首を突込んだ女がある。油の匂で結つたばかりと知られる大きな潰し島田には長目に切つた銀糸をかけている。わたくしは今方通りがかりに硝子戸を明け放した女髪結の店のあつたことを思出した。
吹き荒れる風と雨とに、結立の髷にかけた銀糸が乱れるのが、いたいたしく見えたので、わたくしは傘をさし出して、「洋服だからわたしは濡れても平気だ。貸して上げるよ。」
實は店つづきの明い燈火に、流石のわたくしも相合傘には少しく恐縮したのである。
「すみません。すぐそこです。」と女は傘の柄につかまり、片手に浴衣の裾を思ふさまくり上げた。