「永井荷風 墨東綺譚」 61頁 *“ぼく”という変換字なしのため便宜“墨”

わたくしの忍んで通ふ溝際(どぶぎは)の家が寺島町七丁目6六十何番地に在ることは既に識(しる)した。この番地のあたりはこの盛場では西北の隅に寄つたところで、目貫(めぬき)の場所ではない。仮に之を北里(ほくり)に譬へてみたら、京町一丁目も西河岸に近いはずれとでも言ふべきものであらう。聞いたばかりの話だから鳥渡(ちよと)通(つう)めかして此盛場の沿革を述べようか。大正七八年の頃、浅草観音堂裏手の境内が狭められ、廣い道路が開かれるに際して、むかしから其邉に櫛比していた?弓場銘酒屋のたぐひが悉く取払いを命ぜられ、現在でも京成バスの往復している大正道路の両側に處定めず店を移した。つづいて傳法院の横手や江川玉乗りの裏あたりからも追はれて来るものが引きも切らず、大正道路は殆軒並銘酒屋になつてしまひ、通行人は白昼でも袖を引かれ帽子を奪はれるやうになつたので、警察署の取締りが厳しくなり、車の通る表通から路地の内へと引込ませられた。浅草の?地では凌雲閣の裏手から公園の北側千束町の路地に在つたものが、手を尽くして居残りの策を講
じていたが、それも大正十二年の震災のために中絶し、一時悉くこの方面に逃げて来た。市街再建の後西見番と称する藝妓家組合をつくり転業したものもあつたが、この土地の繁栄はますます盛になり遂に今日の如き半ば永久的な状況を呈するに至つた。初め市中との交通は白髭橋の方面一筋だけであつたので、去年京成電車が運転を廃止する頃までは其停留場に近いところが一番賑であつた。
然るに昭和五年の春都市復興祭の執行された頃、吾妻橋から寺島町に至る一直線の道路が開かれ、市内電車は秋葉神社まで、市営バスの往復は更に延長して寺島町七丁目のはづれに車庫を設けるやうになつた。それと共に東武鐵道会社が盛場の西南に玉の井驛を設け、夜も十二時まで雷門から六銭で人を載せて来るに及び、町の形勢は裏と表と、全く一變するやうになつた。今まで一番わかりにくかつた路地が、一番入り易くなつた代り、以前目貫といはれた處が、今では端(はず)れになつたのであるがそれでも銀行、郵便局、湯屋、寄席、活動写真館、玉の井稲荷の如きは、いづれも其儘大正道路に残つていて、??広小路、又は改正道路と呼ばれる新しい道には、圓タクの輻輳と、夜店の賑ひとを見るばかりで、巡査の派出所も共同便所もない。このやうな邉鄙な新開地に在つてすら、時勢に伴ふ盛衰の變は免れないのであつた。況や人の一生に於いてをや。