2/2「男の作法巻末解説ー常磐新平」新潮文庫“男の作法ー池波正太郎”から

食べもののことばかり、私は執着してきたが、服装についても、池波先生は具体的で、身だしなみやおしゃれは、男が「自分の気分を引き締めるため」だと定義されている。服装をととのえるには「よくよく裸になって鏡に映して見なきゃだめなんだよ」ということになる。自分を正しく厳しくみつめるということにである。
『男の作法』は若い人にも読んでもらいたいが、中年男にこそ向いている。これは人生の副読本、ないし参考書ではあるまいか。池波先生は、ここでは肩ひじ張らない、ゆとりのある生活を説いておられる。性急な判断や甘い幻想をいましめている。
「自分は、死ぬところに向かって生きているんだ......」と先生はたえず思われている。これは先生の哲学であり、秋山小兵衛ゆ長谷川平蔵の哲学でもある。ただ、そのことを「ふっと思えばいいんだ」「漠然と考えるだけでいい」という。
それから、池波先生のもう一つの哲学 ー
「人間とか人生とかの味わいというものは、理屈では決められない中間色にあるんだ。つまり白と黒の間の取りなしに。その最も肝心な部分をそっくり捨てちゃって、白か黒かだけですべてを決めてしまう時代だからね、いまは」
この言葉は『剣客商売』や『鬼平犯科帳』でも聞くことができる。若き日の秋山小兵衛を描いた『黒白(こくびゃく)』でもそれを読むことができた。私はこの言葉を聞くたびに、深い共感をおぼえるし、ほっとする。黒か白かを決したがる人がふえているから、たぶん、私など救われた気持がするのだろう。ここから、人間というのは、善いことをしながら、悪事をなし、悪いことをしながら、善事をなす、不思議な生きものだという認識が生れてくる。これは、秋山小兵衛や鬼平がなんどもなんども言っていたことである。
鮨やそばやてんぷらやうなぎの食べ方、ビールの飲み方から、いつのまにか話は服装や赤ん坊や母親の香奠(でん)や日記や浮気や鍼の話題に移っていく。それらはいずれも、まず有益であって、それに楽しいのである。死や病気や運命や香奠の何が楽しいのかと叱られそうであるが、しかし、有益なお話だから、実は楽しいのではないかと思うのである。
有益なとか役に立つとか得をするとか、こういった形容を池波先生の本には、私は使いたくない。そんな、安直なものではなく、もっともっと奥の深い本だと思うからである。
先日、友人と鮨屋にはいったら、となりで社用とおぼしい三人の男がビールを飲みながら、何やらしゃべっていた。一人はエビばかり注文するのであるが、職人が握って出してもすぐには食べない。しばらくたってから、気がついたように食べるのである。
こういう連中にこそ『男の作法』を読ませたいと思った。私たちはともに『男の作法』を三年前に読んでいたから、いつものようにお酒を二本におつまみをたのみ、鮨を食べて勘定してもらうと、いつもの勘定の半分だった。こっちの勘定があの三人組についちゃったのかね、と友人はにやにやしたものである。
『男の作法』というタイトルに、池波先生は恐縮されている。「他人(ひと)に作法を説けるような男ではない」と。けれども、私としては、他人に堂々と天下国家を論ずる人よりも、先生から男の作法をうかがいたいのである。天下国家を論ずる人から私は聞く気がしない。そんなものはどうせ自分を棚にあげた説法にきまっている。
もう一度繰り返すけれども、私はこの本を二十代のころに読んでおきたかった。おそくとも三十代に読みたかった。若いころに読んでいれば、それだけ私の生活が豊かになったはずである。いま、文庫で読めるのは有難いことであるが、ちょっと残念な気もするのだ。といって、先生を責めることはできない。自分が年齢(とし)をとってしまったことが口惜(くや)しいのである。
ただ、若い人たちに私は池波正太郎を読みなさいとすすめてきた。それが正しかったことをこの文庫でいっそう確認できた。その若い人たちの一人が、お父さんもこれを読むといいよと父親に進呈してくれたら、と思う。醤油にわさびを溶いてお刺身を食べるお父さんや、てんぷらを親の敵のように思わないお父さん、縞のシャツに縞のスーツを着ているお父さんが意外に多いのだから。その一方で、シャリとかムラサキとかオアイソとか、そういう言葉を得意そうに言う若い人もまた意外に多いのである。そういう人たち ー 私を含めて ー のために『男の作法』がある。