(巻十五)立読抜盗句歌集

雨戸締めふたたび開けて見る良夜(松本そうしゅう)
角と角ぶつかつてをり受験絵馬(中村正幸)
千の蟲鳴く一匹の狂ひ鳴き(三橋鷹女)
汗をもて問診に嘘ひとつ言ふ(久保東海司)
神宮の夕立去りて打撃戦(ねじめ正一)
太古より滴る岩は陰の神(後藤啓之)
人それぞれ書を読んでいる良夜かな(山口青頓)
キスをすることなく下りる蜜柑山(萩原慎一郎)
秋風や褒めても叱つて呉れず(安住敦)
人のみな能面に似て寒の月(神吉拓郎)
手仕事の友としこころ遊ばせる耳にやさしいラジオの音声(松本知子)
いつまでもひとつ年上紺浴衣(杉本零)
歩道まで間口広げて種物屋(栗城光雄)
婿二人とも大当り魂迎へ(伊佐利子)
おばさんを姐さんと呼ぶ懐手(岸本尚毅)
声ほどは飛ばぬ女優の追難豆(渡辺峰山)
切るほども無き失恋の髪洗ふ(達哉)
流れ星悲しと言ひし女かな(高浜虚子)
口にしてしまひ寒さに囚はれる(山本素竹)
われら粗製濫造世代冬ひばり(高野ムツオ)
女拗ねて先に戻りし桜狩(潮原みつる)
蛙の夜我が生涯の一戸建(田中勝清)
英字紙の袋の掛かるぶだう棚(中御門あや)
窓あけることに始まる月見かな(河内静魚)
欠伸して鳴る頬骨や秋の風(内田百鬼園)
ちちははの逝きて安心秋澄みぬ(岡本高明)
秋の園案内板の鳥暦(くまさん)
つちふるや嫌な奴との生きくらべ(藤田湘子)
ぶつかるは試行錯誤か黄金虫(斎藤實)
聲なくて花のこずえの高わらい(野々口立圃)
蓋あけし如く残暑の来りけり(星野立子)
骸骨の上を装ひ花見かな(上島鬼貫)
心太殺し文句を笑はるる(田中和行)
奔放な蔓はくくられ葡萄棚(前田達江)
パソコンの文字のゆらぎや目借時(久保田かなめ)
今朝秋や見入る鏡に親の顔(村上鬼城)
ぼうふらやつくづく我の人嫌い(田中裕明)
百日紅思へば妻の名を呼ばず(工藤杏果)
だんだんと蒲団となつてゆく体(抜井諒一)
冷奴ひとりひとりにわたるころ死者の話が生者にうつる(外塚喬)
凍つる夜の独酌にして豆腐汁(徳川夢声)
花疲れ人に合せて笑顔して(清水美登)
寿司もくひ妻の得し金減り易し(林田紀音夫)
色少し褪せて気楽な藍浴衣(古野道子)
八月や自然も歴史も息苦し(竹居照芳)
夜の音生む蛇口絞めなほす(福永耕二)
火取虫男の夢は瞑るまで(能村登四郎)
温めるも冷ますも息や日々の冬(岡本眸)
息詰めて見る蟷螂の食ふものを(右城暮石)
落葉掃き了へて今川焼買ひに(川端茅舎)
つばくらや小さき髷の力士たち(津川絵里子)
最初から重さうな鍋社会鍋(名村早智子)
あひ見ざる幾月を経て面影もやさしき声もはやおぼろなり(上田三四二)
年毎の二十四日のあつさ哉(菊池寛)
板きれにきんぎょのはかと幼文字(黒澤正行)
絵所を栗焼く人に尋ねけり(漱石)
自転車のベル小ざかしや路地薄暑(永井龍男)
秋深し四谷は古き道ばかり(入船亭扇橋)
春待つや愚図なをとこを待つごとく(津高里永子)
放つておく聞く耳持たぬ烏瓜(紅緒)
悪玉が笑へりかがやき盆の月(石原八束)
上下線ともに不通ぞ夜鳴蕎麦(後藤一之)
目を閉ぢて明日刈る稲の声を聞く(西やすのり)
寒禽の取り付く小枝あやまたず(西村和子)
ただならぬ世に待たれ居て卒業す(竹下しずの女)
噴水の折れる他なき高さかな(川崎文代)
消息を知りたくもあり紙魚のあと(渡利寿美)
秋鯖や上司罵るために酔ふ(草間時彦)
或る高さ以下を自由に黒揚羽(永田耕衣)
ラガー等のそのかちうたのみじかけれ(横山白虹)
サングラス目線の合わぬ会話して(スカーレット)
記事で見し先進医療受けんとす転移していて無理だと言わる(岡田独甫)
たわむれに見詰め返して謝肉祭(鳴戸奈菜)
初夢は死ぬなと泣きしところまで(真鍋呉夫)
遠慮して覗く「一力」青簾(赤尾恵以)
湯婆などむかしむかしを売る小店(杏田郎平)
駅で会ひカフェに別れしサングラス(須田真弓)
非常なる世に芋虫も生れあふ(百合山羽公)
はえたたき握った馬鹿のひとりごと(渥美清)
風邪うつしうつされわれら聖家族(伊藤白潮)
うつむける祭の馬を見たるのみ(伊藤通明)
面影の忘らるまじき別れかななごりを人の月にとどめて(西行)
遠雷や柩にこの世覗く窓(山本菫)
酒を妻妻を妾の花見かな(キカク)
芸術の秋の人出に紛れむか(太田うさぎ)
死神の何刈る鎌か二日月(和田誠)
まず犬に水を飲ませて汗の人(今井文雄)
背を割りて服脱ぎおとす稲光り(坂間晴子)
放屁虫おとしぎりにも歩むかな(高野素十)
不思議なるものに持病やとろろ汁(五味靖)
人生は誤植か秋の数ページ(伊藤五六歩)
春宵の酒場にひとり酒啜る誰か来んかなあ誰あれも来るな(石田比呂志)
老の息うちしづめつつ牛蒡引く(後藤夜半)
五十七めぐり逢ひて見しやそれともわかぬまに雲がくれにし夜半の月かげ(紫式部)
点滴のわが名逆さま日脚伸ぶ(志村宗明)
濡土に木影沁むなり秋日和(阿部次郎)
扇置く自力にかぎりのありにけり(上田五千石)
己から人から逃げてサングラス(当銘登)