「三越名人会 - 安藤鶴夫」旺文社文庫 巷談本牧亭 安藤鶴夫 から

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三越名人会 - 安藤鶴夫旺文社文庫 巷談本牧亭 安藤鶴夫 から

その年も、初時雨とか、酉の市とか、小春とか、そんな季寄せのことばがうかぶ十一月になっていた。
四谷公園を抜けて、赤坂離宮の正面がみわたせる舗道で、近藤亀雄はタクシーを待っていた。
しきりに枯れ葉が舞い落ち、そんな時、そんな角度からみるもとの離宮は、あんまり自慢をするところのなくなった東京のけしきの中で、いつも、東京っ子の近亀(こんかめ)が、ああ東京だな、と嬉しくなるけしきの一つである。
劇場へいくのにも、放送局に出掛けるのにも、たいてい、いつもそこでタクシーを拾うことにしている。
自分ではまだ新聞記者のはじっこぐらいにはいるつもりだが、世間では近亀は劇評家ということになっている。
雑誌になんか書いた時なんか、文章の終わりのところに(筆者紹介)というのがつく時など、電話で、劇評家と書きますか、それとも演劇評論家としましょうか、などと訊かれることがある。
そんな時、劇評家というよりは、演劇評論家といわれる方が、さもえらそうなので、少してれながら、ああ、それア演劇評論家ッてえ方がえらそうでようがしょうという。
そのくせ、落語の本だの、随筆なんかの本を出していながら、まだ、一冊も演劇評論に関する本を出したことのない妙な男である。
グレーの色が好きで、一年中、グレーのものばかり着ていて、ある時、桂三木助が、高座で、
「ベレーが鼠、服が鼠で、万年筆が鼠、靴下が鼠でドル入れが鼠、モモヒキが鼠で、靴がまた鼠ッてえン、世の中にゃアいろいろまた好きずきてえものがありますもんですな。このひとが表へ出ましたらお向かいの猫が飛びついてきたッてえン」
ベレーと靴だけは黒だが、たしかにあとはみんなグレーずくめである。
三木助が高座からそういってからかったら、顔を赤くして苦笑した男である。
あんまり、好ききらいがはっきりしているので、近亀をはり倒そうと思った者も大勢いたが、まだ、はり倒されたことはない。
始終、ひとのことで腹をたてたり、感動をしたりするので、仲間は、あれア近藤亀雄じゃアなくってカンドウスルヲだと、かげ口をいっていた。
ホープを一服つけると、赤坂見附の方から、一台、黄色いのがやってきた。文字通り、イエロー・タクシーである。
いやだなと思ったが、手を挙げ、乗ると、
三越へいってくれませんか、日本橋のね」
東京ッ子の習性で、タクシーの運転手なんかにまで、ひどく気をつかうたちである。
毎月いちど、三越名人会のプログラムを決める集まりがあるが、きょうは、これから十二月と正月のプラン会議がある。
三越名人会は昭和二十五年の一月からはじまった。
世の中がくらく、東京がまるで東京らしくなくなって、芸の世界も、バケモノのようなのばかりが大きな顔をしてのさばり、日本の古い芸はいったいどこにいッちゃったのかという時代だった。
「名人会をつくろう」
といいだしたのは堀倉吉である。
古い芝居の興行師で、七代目・幸四郎を持っては、日本中を巡業した男である。
そのゆかりで、海老蔵松緑の世話をしていたが、その頃は松緑の勘右衛門の、藤間流の顧問のようなことをしていた。
興業の世界にいると、始終、腹の立つことばかりが多かったのを、きれいにやめて、たまに、市川少女歌舞伎なんかを、三越劇場に上げたりするようなお道楽はやったが、藤間流の家元の相談役のような形で、のんきに、しずかに暮らしていた。
近藤亀雄とは、近亀がまだ新聞記者をしていた時分からの知り合いで、頑固なところが気に入ったとみえて、近亀が新聞記者を止めてからも、ときどき、四谷のうちに遊びにきた。
「これじゃァ仕様がない。古い芸ッてえものが、いったいどうなッちゃうんだろう?」
そういって、近亀に、名人会をつくろうといいだした。
自分がやって、半年か、一年でつぶれるのでは意味がない。
「ひとつ、三越劇場へ話してみる」
といった。
それには、誰がみてもきいても、これが日本の芸だということの出来るいいものばかりを集めて、昔の有楽座の名人会のような舞台を再現しようというのである。
毎月、いちど、顧問の久保田万太郎を中心に、三越の別室に集まって、出演者の顔ぶれを決めた。
たとえば、第一回を例にとると、こんなプログラムである。
幕があくと、松羽目、下手に勾欄(てすり)をつけて、三宅藤九郎狂言"木六駄"(きろくだ)つぎがしんみりと、哥沢芝金が"玉川"や"松竹梅"をうたう。松竹梅は、その初回が正月だからである。
それからがらッと舞台がかわって、徳川夢声の漫談、つづいて豊吉の三味線で二三吉の俗曲があって、桂文楽の"寝床"。
そのあと宮崎春昇の地唄の"鳥辺山"をうたって、さいごは杵屋六左衛門長唄で、吾妻徳穂と藤間万三哉(まさや)が"時雨西行"を踊るという番組である。
近藤亀雄は春昇の地唄を客席でききながら、涙がこぼれてきて、仕様がなかった。
あれほどの大きな戦争の中を、この老いたるおめくらさんの芸人が、よくも生き抜いてくれたものだという感慨と、それに、老いて、いよいよその芸の冴えたことに対する感動の涙である。
出演者も力一杯の芸を出したが、三越劇場を埋めた東京の客もたいしたものだった。
その頃、歌舞伎座でも、うっかり持ちものを椅子忘れて立ったがさいご、すうッと、かげも形もなくなるという物騒な世の中だった。
だから、幕間になると、絶えず、椅子にものを置いて立つな、という場内アナウンスばかりをしていた時代である。
三越名人会の客席では、それが、なにを置いて立っても、もののなくなるということが、いちどもなかった。
出るひとたちも天下一流の芸なら、客も、東京でよりすぐった客だった。
(ここまでといたします。あとは自分で借りたり、買って読んでください。)