私の父はむかし小説家志望の文学青年でした。武田麟太郎という作家について、せっせと小説家の修業をしていたと母は語っています。この夢はついに実現することはありませんでした。しかし新聞記者という仕事柄、つねに原稿用紙と縁の切れない人でしたから、私は小さいときから、文章を書くとはどういうことか、ほかの子よりはよく知っていたような気がします。ペンでマス目を一つ一つ埋めてゆき、途中で破り捨てたり、推敲したり、朱を入れたり、なによりも、ものを書くのはコンをつめる孤独な作業だということなど。こういった門前の小僧的背景は人生に案外大きな意味をもつにちがいありません。野球の選手の子は野球がすべてであるような環境で育ちますし、政治家の子も、たぶんサラ リーマンの子も、それ以外の人生は考えられないような育ち方をするのではないでしょうか。
私がもの書きになりたいと思ったのはいくつくらいだったのか。もの書き業といえばその当時私にとっては小説家しかありませんでした。高校の一年だったか二年だったか、私は小説を書きました。それを誰に見せたらよいのかわからず、父に読んでもらったのです。父は全部に目を通さぬうちに、こういって投げ出すように返してよこしました。
「吐き気がするよ」
父はたいへん穏やかで、情にも厚く、円満な人柄でしたから、私はこの意外なことばに驚き、かつたいへん傷つきました。そのときの私の小説がどんな内容だったのか、ぜんぜんおぼえていません。たぶんいま読んだら、青臭くて、 なまいきで、さぞ「吐き気」がするでしょう。でも尊敬する父親からこういう批評をされた私のダメージは大きかった。それ以来、二度と小説を書く勇気がなくなったのですから。
大学生でなってから、私からその話をきいた友だちは、あざけるように笑っていいました。
「小説を親に見せるなんて最低ですよ。あんなものは親兄弟に見せるもんじゃない。作家の奥さんが、亭主の小説は絶対に読まないという例だってめずらしくないですよ」
私もあとになって考えれば、見せる相手にも事欠いて、父親に見せるなんて最低でした。しかし、現代のような情報化社会ではなかったあの当時、高校生が書いた小説を、どのにどうしようがあったでしょう。父は小説家にはなれなかったけれど、ま るきりしろうとというわけではないと、高校生の私は判断したらしいのです。
しかし、それだから、なお悪かったのです。小説家になろうとしてなれなかったことで、父自身の自尊心がひどく傷ついていただけでなく、作家を志したなんて、若気のあやまちのような、うしろめたい気持も大いにあったでしょう。それなのに、自分の娘が真似して小説なんか書こうとしているのを知れば、その思いは複雑です。思い出したくない自分の過去、自分の古傷をさらけ出されるような気がしたことでしょう。それで、ついいってしまった。
「吐き気がする」
父はこのことばをいうべきではなかった、いかに自分のふれられたくない過去と結びついていようと、口にするべきではなかった、と私はいまだにこだわっているのです。父が生きた年齢を越し、経験を積み、いろいろなことを客観的に受けとめ、許せるようになったいまも、私はしつこくこだわっているのです。
これをきっかけに、私は二度と小説が書けなくなりました。私は娘として父に強くひかれていましたので、立ち直れないくらい大きな挫折感があったのでした。
また別のひとは、私のこの話に、父親として反応しました。
「そんなものですか。なるほど親というのは難しいものですな」
私もいま母親になっています。子どもたちの将来に致命傷を与えるような言動は慎もうと、ずいぶん注意はしているつもりです。何事もほめるように、ほめるようにして。でも気づかずに悪いことをいってしまっていないとはいいきれますまい。
またあるひとは、首をかしげて、こういわれました。
「理工系の分野で挫折しても、そう傷つくということはないのに、小説家志望というのは、挫折があとを引くのは、なぜでしょうね」
居合わせた評論家が答えていわく、
「全人格がかかっているからですよ」
いまでは、こういうこだわりをもって小説を書くひとは少ないのでしょうか。昔は文士という特別な名称があり、文壇という、重々しいサークルもあったときいています。「文学をする」ということばには、たいへん高尚な、同時にまことにやくざな響きあったものです。それは、なれれば一流、なれなければ社会の落伍者と、極端に命運をわける稼業だったからではないでしょうか。かたぎの商売ではなかったのです。
「エッセイストの誕生(抜粋)-木村治美」文春文庫 エッセイを書きたいあなたに
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