「唐招提寺の魅力(抜粋)- 東山魁夷」講談社学術文庫 日本の美を求めて から

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唐招提寺の魅力(抜粋)- 東山魁夷講談社学術文庫 日本の美を求めて から


唐招提寺の魅力について、知識の乏しい私が一文を草すことになったのは、森本長老から依頼された御影堂の障壁画及び御厨子の揮毫という縁に結ばれてのことである。私はその縁の浅からぬことを想い、不遜をも省みず、このみ寺について感じるところを述べてきたわけである。
唐招提寺は鑑真和上が、はるばる唐から言語に絶する苦難の末に来朝され、律学の根本道場、即ち仏教徒の守るべき戒律を授け教えるための最高学府としての性格を持って建立された寺である。そのことは建築その他にも偲ばれ、また、寺風となって今日なお生き続けている。この寺の持つ清潔感の根源は、そこに由来していると思われる。私にとって、何より心を引かれるのは、まず、この点に在る。その精神は境内 の隅々にまで感じられ、心が洗われ鎮められる想いがする。奈良、大和はもとより日本には由緒も深く優れた建築、仏像、絵画等を持つ寺も少なくないが、その中でも唐招提寺ほど、清澄な香気を感じさせられる寺は稀ではあにだろうか。
唐招提寺の魅力は、同時に鑑真和上の魅力であり、それが千二百年以上を経ても続いているのは、和上その人の偉大さと、天平の金堂、講堂等の主要な建築や仏像が、災害を受けずに残ったこと、和上が住まわれた場所や廟墓が、はっきりしていることなども挙げられる。和上の肖像彫刻が古今の名作であることも要因の一つである。
また和上が日本に将来された唐の文化の意義も大きい。唐は世界的国家であり、興隆の頂にあった中国文化に、遠くギリシャ、ペ ルシャ、あるいはインドというふうに、古代の文明の担い手であった国々の文化の粋が加わり、華々しい開花期にあった。大陸の国々では、大陸の国々では、外来の文化は通過して行く性格を持つものでもあるが、日本は極東の島国で、いわば外来文化の終着駅とも言える。
日本人は外来文化を吸収することも積極的であるが、それを温めて自国の民族的な好みに同化させてゆく性格も強い。それだけに優れた外来文化に接するということが、日本文化にとって重大事であることは、飛鳥時代から今日に至るまでの歴史的事実と見られる。鑑真和上というような、唐の高僧で人格の高い人が、直接、来朝されたことは、日本にとって幸いな事であった。

和上の渡航が数度の難破にもかかわらず、我が国へ伝えられた貴重な品々は驚くべきである。仏舎利を納めた白瑠璃舎利壺と、それを包むレースをはじめとして、王義之(おうぎし)の書、仏教の教典の数々、さらに仏師や工芸家なども随行したと言われる。唐彫刻の新様式を伝えて、唐招提寺派と呼ばれる源となり、東大寺天平様式とは、かなり異質の特徴を持つ仏像が生れたことは注目すべきである。和上はまた薬学の知識にも詳しかったという。これらのことが当時の日本文化に与えた刺戟と恩恵は大きなものがあったことは言うまでもない。もし、初期の渡航が成功していたなら、その将来の貴重な品々の豊富さと、和上に従って来ることになっていた多方面の工人の数 も、たい へんな人数であったことが記されている。
鑑真和上の来朝を記述した淡海三船(おうみのみふね)の『唐大和上東征伝』は、和上の円寂後十六年目に書かれたものである。時代は下るが、鎌倉期に蓮行(れんぎょう)が『東征伝』によって描いた絵巻物五巻が現存している。

井上靖氏が和上の来朝に重要な役割りを果した日本留学僧の運命に焦点を合せて書かれた小説『天平の甍』が、鑑真和上や唐招提寺についての関心を多くの読者に与えた功績は大きい。また安藤更生氏が和上の事跡と人柄に強く引かれて、情熱を注がれた『鑑真大和上伝之研究』は貴重な論文である。
現長老森本孝順師が一乗院宸殿を移築して御影堂とされたり、南大門の建立、講堂の修理、中秋名月の行事というように、昭和の戦後に、唐招提寺の歴史に遺る数々の魅力が附加されていることは喜ばしい。

鑑真和上が、国禁を破ってまでも、何度も、莫大な費用をかけ、辛苦を顧みず来朝をされようとした情熱は、何に由来するのかは、多くの学者によって研究されてきた。それでもなお、解明され尽したとは言えまい。
和上が日本への渡航を決意された時は、五十五歳であったが、日本へ上陸されたのは六十七歳になろうとすろ時であった。骨を日本に埋める覚悟はもとより、途中、海底に沈む危険が大きかったのに、それでも、日本へ渡ろうとされた。何故、それほど日本を思慕されたのか。
中唐の仏教の爛熟頽廃の相を見て、むしろ、新しい伝教興隆の国としての日本での自己の使命と生き甲斐を強く感じられたことは、『東征伝』の中の和上の言葉にもうかがわれる。また、和上は、すでに唐での戒律の最高権威としての名実共に備った地位に立たれ、生涯の目的の大半を達せられていて、これからの余生を、新生の第一歩として踏み出そうとする気持ちであったかもしれない。なぜなら和上は稀に見る大旅行者としての稟質を備えていられたことが、、『東征伝』の中によく見られる。遥か海南島まで漂流して行っても、そこで仏殿を修理造営したり、長途の旅行中も授戒や律学を講じるというように、実にエネルギッシュである。
森本長老が私に語られた一言が私の胸に響いた。それは、いろいろな理由があったであろうが、「日本は風景の特に美しい国」というイメージも強く和上の心に在ったのではないかということである。自国において、既に志を果した和上に、大旅行者としての情熱が燃えていたとすれば、あるいは、「世にも美しい島国」への愛着も、理由の一つではないとは言えない。

和上が来朝された時は失明していられたから、美しい日本の風景は見られなかったであろう。和上が奈良に着かれた頃の日本は、たしかに世にも美しい風景の国であったはずである。
いま、奈良、大和はもとより日本は美しい風景国とは、残念ながら決して言えなくなった。しかし、唐招提寺の美しさは、現在、なお生きつづけている。そして、これからも生きつづけてゆくことであろう。