「エバーグリーンの思い出 - 赤川次郎」新潮文庫 私の本棚 から

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エバーグリーンの思い出 - 赤川次郎新潮文庫 私の本棚 から
 

私は整然と整理された本棚があまり好きではない。
雑然としている方がいいというわけではない。実は今から四十年余り前、書店の店員として働いたときの記憶がまとわりついているためなのである。
進学校だった桐朋高校を卒業した私は、家の経済的事情で大学進学を諦めて就職することになった。体育教師だった高三の担任は、学年中ただ一人の就職者が自分のクラスから出たことを学校に隠していた。
当然、就職先を捜すことなどしてくれない。私は新聞の求人広告欄を見て、大久保にある書店の店員として働くことになった。
一階が書店と文具店、二階が主人の自宅という個人書店で、まだ冷房もなかった。
出勤すると取次からの大きな段ボールが店の前に置いてあり、それを中に入れる。中身が伝票と合っているかどうか、チェックするのだが、一階にはそのスペースがなく、一旦全部の本を二階へ運んで、廊下で伝票と照らし合わせ、終るとまた本をすべて一階へ下す。
朝の一時間ほどのこの作業で、シャツが肌にべっとりと貼りつくほど汗だくになった。本がいかに重いものか、身にしみて分った。
私が高校生だったころ、出版界は「世界文学全集」のブームだった。書店にも、配本日になると、三種類も四種類もの箱入りハードカバーの分厚く重い文学全集がドサッと届く。そんなブームを恨んだものだ。
書店で働いたのは三か月でしかなかったが、本棚に新刊、既刊をどう並べるか、日々苦労の連続だった。あれこれ工夫して並べても、主人にガミガミと文句を言われる。
十八歳の私は帰り道、駅のホームでよく泣いたものだ。
今も、きちんと本を揃えようとすると、その思い出が頭をよぎる。 - 自分の本棚だ。自分だけ分かればいい。
そう思って適当に並べている内、自分でもどこに何があるか分からなくなる。でも、そんな本棚は自分の記憶と同じで、大切なものだけが取り出しやすい所にあるのだ。
ー 「私の本棚」の話ではなくなってしまったが、運ぶのに苦労したとはいえ、中学高校時代、「世界文学全集」が次々に刊行されたことは、私の読書体験の基本になった。
私の本棚は、「緑のイメージ」である。
当時、河出書房新社から出ていた、「グリーン版」という世界文学全集が、私の「文学の原点」だった。
緑の箱入りで、装丁も緑、重過ぎず、手になじんだ。
スタンダールの「赤と黒」、ドストエフスキーの「罪と罰」、ロマン・ロランの「ジャン・クリフト」.......
グリーン版で読んだ古典は多い。
一番くり返し読んだのはヘルマン・ヘッセの「郷愁(ペーター・カーメンチント)」、「車輪の下」、「知と愛(ナルシスとゴルトムント)」を納めた一巻。背表紙がはがれてバラバラになるまで読んだ。
トーマス・マンだけは「魔の山」を筑摩書房の「世界文学大系」の佐藤晃一訳で読んだ。
今、世界文学全集を本棚に並べる家庭はほとんどあるまい。かつて私がグリーン版で読み耽った古典を、読書体験の基礎に持っている人は、若い世代になるほど少ないだろう。
もう古典は役に立たない「骨董品」でしかないのだろうか?
久々に新しい世界文学全集が進行中と聞くが、古典は収録せず、「二十世紀の文学」で編むとのことだ。
「ジャン・クリフト」の理想主義、ヒューマニズムは、二十一世紀には不要なのだろうか。
ドイツの作家、ハンス・カロッサの名を知る人も、今は多くないだろう。やはりグリーン版で読んだ「美しき惑いの年」は、医学生時代の日々を、内省と知性の人であるこの作家が回想した作品である。
ここに描かれた青春は、今の青春とあまりにかけ離れ、共感することもないかもしれない。けれど、私は今でも忘れられない。
医学生としてミュンヘンで学びながら、文学青年だったカロッサが、自分の熱中した作家がしめていたのと同じネクタイを町中捜し回って、仲間でしめて歩いて得意になっていた、というエピソードを読んで、心から安堵したこと -。</div>
あのカロッサも、若き日には若さゆえの馬鹿げた行為に熱中したことがある、知ったことが、どんなに私の気持を楽にしてくれたか。
古典は遠い昔話ではない。人間の、変らない部分を描いているからこそ古典なのだろう。
数年前、サンクトペテルブルグへ旅したとき、「罪と罰」のラスコーリ二コフが金貸しの老婆を殺したアパートという所へ案内された。
暗く、冷え冷えとした階段、人気のない中庭など、本当に事件がつい昨日のことのように息づいて感じられた。
ミステリーはゲームではない。犯罪と人間を描く小説である。
私は、ミステリーを書こうという人は、必ず「罪と罰」を読むべきだと思う。犯罪者の心理と悔恨をこれほど鮮かに描いたものはない。</ div>
犯人もまた人間である。 - その当り前のことを、「罪と罰」という古典から学んでおくこともが必要だと思う。
安易に無差別殺人犯を登場させて、「異常者」のレッテルを貼れば済むという安直な発想の作品がいかに多いか。
ミステリーも、むろん私の本棚には並んでいる。しかし、まとめて並べてあるのは唯一、アガサ・クリスティだけである。
小説は単に「時代を映す」鏡ではない。
「時代を超えたものを映す」鏡でもあるのだ。