1/5 「四畳半襖の下張「裁判」法廷私記 - 吉行淳之介」ちくま文庫 吉行淳之介ベスト・エッセイ から

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1/5 「四畳半襖の下張「裁判」法廷私記 - 吉行淳之介ちくま文庫 吉行淳之介ベスト・エッセイ から


『面白半分』というリトル・マガジンの初代編集長を、私は昭和四十七年一月号から半年間つとめた。したがって、二代目野坂昭如編集長のとき伝永井荷風の「四畳半襖の下張」という短かい戯作を掲載したためにワイセツ罪に問われて裁判となった場合、弁護側証人として出廷することにある種の義務を感じた。
法廷は朝早くからはじまると聞いていたので、億劫な気分だったが、第一回の弁護側証人として五木寛之井上ひさしが出廷したときから開廷が午後一時からになったというので、証人として出ることにしようという考え方になった。
私はもともと推理小説の法廷場面が大好きで、場面の変化がないのにもかかわらず、僅かな言葉の使いそこないでポイントを失ったり、突然事件の真相が浮び上ったりするところに甚しく興味を惹かれていた。しかし今回の場合は、犯人当てのゲームではないので、論理的な陳述によって野坂・佐藤(嘉尚)両被告の無罪を立証しなくてはいけないのか、と講演が苦手でもう十何年も断りつづけている私としては、気が重くなっていた。
ある夜、ふと気付いた。これは講演ではなく、質問側の弁護人および特別弁護人の丸谷才一の問いに答えればよいことで、つまりは対談なのだ、と理解したのである。
対談となれば、私のレパートリイの一つであって、気がラクになる。あの法廷場面に参加できると、喜び勇みはじめた。
第一回の三月十五日のとき、被告側は五木寛之と私を弁護側証人に申請したそうだが、私のほうは保留になり、替りに井上ひさしになった。このほうがはなやかな名前で、弁護側としては有難いわけなのだから、そこらあたり検察側の気持がよく分らない。
第二回は私に許可がおりて、昭和四十九年四月十六日、東京地裁七〇一号法廷におもむくことになった。
その前に、ちょっと行き違いがあった。私は四月十五日とおもいこみ、それを告げてきた佐藤嘉尚に、
「十五日でよかった、十六日は、三時から川端康成賞の選考会があるから、それに出席しなくてはいけない」
と言い、佐藤は、
「それは好都合でした。それなら、三時からの分にヨシユキさんを申請します」
と、答えた。
間もなく、「東京地方裁判所刑事第20部」という文字が封筒に印刷してある「特別送達」の速達が届いた。十五日と私はきめていたのだが、数日前になってあらためて読んでみると、「四月十六日」と書いてある。
いそいで、佐藤に電話して、
「君は、基本的なところでボンヤリしておる」
というと、彼はあわてて弁護士を通じて裁判所と交渉した。三時からの私の分を、一時からの開高健証人の持ち時間と取替えてほしい、という申し入れである。私などにとっては、その程度のことは大した問題ではないとおもうのだが、特別のはからいでそういう変更を認めてもらったそうだ。
さらに、前々日になって、認印持参という項目のあるのをおもい出した。そのときには、私はホテルに仕事に出かけていてハンコを持ってくるのを忘れていた。また電話して、
「ハンコがない。近所で三文判を買って.......、『吉行』は売っていないから、『吉井』というのを買って『井』のところを四か所削り落して『行』にしておいてくれ」
と、佐藤に頼んでおいた。
当日、定刻に法廷に入ると、なかなか相手が現れない。
「遅いな」
というと、開高健弁護側証人が、
「西洋にはアカデミーズ・クォーターという諺があって、いかに偉い学者の集まりでも十五分は遅れるもので、その限りにおいては待つものらしいですな」
と博識を披露しているうちに、丁度十五分経って、裁判官三人と検事が入場してきた。傍聴人は七十人で満席である。
大前邦道裁判長は温顔で、平井令法検事は意外にも加藤武をそのままもう少し好男子にしたような顔つきである。考えてみれば、検事といえば悪役のイメージだが、弁護士に転業する場合もしばしばある。なにも、モノスゴイ面構えときまっているわけではない。
まず、裁判長の前に開高と並んで立って、「宣誓」をおこなった。キリスト教国ならバイブルの上に手を置くのだが、わが国では印刷物を読むだけである。

裁判長 二人いっしょに、読みなさい。
開高・吉行 いっしょですかぁ。
吉行 ハモるのですか。
裁判長 それができないなら、一人でよろしい。

開高健が大声で読み上げたあと、

開高 吉行淳之介開高健

と二人分の姓名を言ってしまったので、私はあわて、裁判長は苦笑した。開高も気付いたので、私があらためて自分の姓名を言った。
そのあと開高は退場し(証人は、もう一人の証人の発言を聞くことは許されない)、私は裁判長より一段低いが、検事よりすこし高い位置にあるなかなか立派な席に坐った。近くに女性速記者がいて、タイプライター型の速記具の前に坐っている。