「広告のなかの銀座 ー 天野祐吉」 筑摩書房 見える見える から

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「広告のなかの銀座 ー 天野祐吉」 筑摩書房 見える見える から

はじめて銀座に行ったのは、たしか、小学校の三年生のころだったと思う。もう半世紀も前のことだから、かなりあやふやな記憶だが、たぶん、軽演劇ファンだった父と一緒に日比谷の宝塚劇場でエノケンの芝居を見て、そのあと銀座を歩いたのではないかという気がする。
ぼくは下町のはずれ、足立区の千住ていうところで、生まれ育った。だから、たまに遊びに連れて行ってもらえる盛り場と言えば、もっぱら浅草であって、銀座ははるかかなたの「西洋」みたいなものであった。
それだけに、はじめて銀座を見たときの印象はキョーレツで、具体的なことは何もおぼえていないのに、「異国」の風景のなかに自分がポツンと立っているような、その場のふしぎな空気感だけは、はっきり記憶に残ってい る。
いまから思えば、たぶんその空気感は、銀座の町並みや、町を歩く人たちのふんいきがつくり出していたものだと思う。町並みを構成している一軒一軒の店の感じが、浅草とはまったく違っていた。町を歩いている人たちの服装も顔つきも、浅草とはまるで別人種のようにぼくには見えた。どっちがいいとか悪いとかいうのではない。町の個性をつくり出しているのは、言ってみればそういう空気感なのであって、いまよりもその当時は、銀座は銀座の(そして浅草は浅草の)空気を、濃密に持っていたように思う。
そんな銀座の空気は、当時の写真や映画や流行歌にも残っている。が、それをいちばんいきいきと映しとっているのは、たぶん、広告だろう。もともと広告は、時代の空気の映し絵という性格を持っているけれど、とくに戦前の銀座の広告を見ていると、ぼくがはじめて見たときのあの銀座の空気が、そこから鮮やかに立ちのぼってくるようだ。



明治から昭和初期まで、日本の近代広告史は、銀座を中心に発展してきた。
たとえば明治には、銀座を根城に、精銑水の岸田吟香や、天狗煙草の岩谷松平といった広告の大先駆者たちが、世間をあっと言わせる広告を精力的に作り出している。二人の先駆者をひとことで言えば、岸田吟香は文明開化ふう広告スタイルの創始者であり、岩谷松平はネーミングとスキャンダラスな話題づくりの天才だったと言っていいだろう。
ジャーナリストとして出発した岸田吟香は、三面記事の名手として名をあげたが、同時に彼は商売の名人でもあって、英和辞典の仕事を手伝ったお礼にヘボン博士(ローマ字表記の創始者でもある)から目薬の製法を教えてもらい「精銑水」という名の目薬を作って大いに売りまくっ た、と言われている。
彼の作った広告は、いかにも三面記事の名手らしいセンセーショナルリズムと、近代的なセンスにあふれている。シルクハットをかぶった自分の似顔絵を広告のキャラクターに使ったり、新聞に「目の科学」の啓蒙広告を連載形式で掲載したり、彼の作る広告は、つねに「ナウさ」で世間の目をとらえた。
それにくらべると、岩谷松平の広告は、国粋主義的で古めかしい。が、それは彼が、舶来輸入タバコの大攻勢に国産タバコで対抗しつづけたからであって、アイデアと手法の奇抜さでは、彼の仕事ぶりもまた群を抜いている。
まっ赤に塗った店の前に、「驚くなかれ税金二万円」と書いた 大看板をかかげて、自分がいかに国家社会に奉仕しているかを宣伝したり、でかけるときは赤塗りの馬車にまっ赤な着物を着て乗り込み、「天狗」のコーポレートカラーをアピールしたり、次から次へと出す新製品に「赤天狗」「青天狗」「日本天狗」「陸軍天狗」「海軍天狗」「義兵天狗」「木の葉天狗」「日の出天狗」「日英同盟天狗」などなど、人を食った名前をつけて世間を驚かしたり、彼のとったさまざまの手法は、近代広告の先駆け的な新しさを持っていた、とぼくは思っている。



資生堂もまた、銀座の広告の立役者である。明治時代の資生堂の広告も面白いが、なんと言っても大正から昭和初期にかけての広告の数々は、いま見てもそのアートの水準の高さにびっくりする。江戸時代の浮世絵広告は別として、日本の広告デザインは資生堂によって初めて世界的水準に達したと言ってもいいんじゃないだろうか。
「東京・銀座・資生堂」というキャッチフレーズもすごい。広告の歴史に残るキャッチフレーズのなかでも、これはベストテンに入る名作ではないかと、前々からぼくは思っている。
リクツから言えば、ただ資生堂の所在地を並べただけという、ただそれだけのソッケない表現に見える。だが、「東京・銀座・資生堂」と、三つの言葉をつないでいる「・」は、点 であって点でない。キラキラ光る一本の糸が三つの言葉をつらぬいて、ソッケない表現とは反対の豊かなイメージ空間をつくり出しているのだ。
このキャッチフレーズは、まず「東京」を売る。この場合の東京は、たんなる地名としての東京ではない。西洋化の拠点都市としての東京であり、「新しさ」のシンボルとしての東京である。
さらに、このキャッチフレーズは、そんな東京を冠詞にして「銀座」を売る。この場合の銀座も、ただの地名ではない。それは東京の新しさを凝縮したマチであり、浅草が「日本」の相続人なら、銀座は「西洋」の代理人である。
その銀座をさらに冠詞にして、「資生堂」が登場する。当然それは、たんなる店の名前ではない。「東京」の代名詞である「銀座」の、そのまた代名詞である。映像的に言えば、東京を空から俯瞰していたカメラが、ぐんぐんズームアップして銀座になり、それがさらにぐんぐんズーム アップして資生堂の建物になっていく、といった感じだろう。そんなイメージの連鎖作用を、「銀座のセンスを代表する」といった調子の野暮な言葉をいっさい使わずに、「東京・銀座・資生堂」という地名表記ふうのソッケない言葉で表現したところに、銀座の代名詞である資生堂のセンスが光っているのだ。
昭和七年につくられた資生堂の宣伝用ウチワには、そんな「東京・銀座・資生堂」の空気が、みごとに描き出されている。「美」を売る店は、その売り方自体に「美」がなければならないということを、言いかえれば「貧しい言葉で豊かさは売れない」ということを、資生堂はちゃんと知っていたということになるだろう。資生堂は銀座のイメージを巧みに利用したが、銀座もまた資生堂によって、より イメージを豊かにしたという相関関係が、そこにはあったような感じがする。
資生堂だけではない。戦前の銀座の店々は、サロンやカフェの広告マッチのデザインを見ても、あっと驚くようなモダンなセンスにあふれている。この時期の銀座のように、一つのマチのセンスがマチぐるみでここまでみごとに洗練されていた例というのは、外国にもあまりないのではないかと思えてくるほどだ。
当時の銀座の白地図を書き、それぞれの店のこうした広告マッチのラベルを貼って埋めていったら、どんな資料よりも、そのころの銀座の空気がいきいきとよみがえってくるのではないか、とぼくは思う。で、たぶんその空気は、下町の少年だったぼくが目を丸くして立っていたあの日の銀座の空気と、きっと同じよう な匂いがするに違いない。