1/2「特高スパイ事件 - 和久峻三」中公文庫 法廷生態学 から

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1/2「特高スパイ事件 - 和久峻三」中公文庫 法廷生態学 から
 

ー死者の名誉とマスコミー

最近、ニュージャーナリズムの分野において、数多くの著書が出版されるようになった。そのこと自体、注目すべきことだと思っている。
しかし、法律家の眼から見て、その中には、ずいぶんきわどい橋を渡っているのも見受けられる。もし、これが事件になったら、どえらいことになるのに?と他人ごとながら肝を冷やすこともある。
こうした傾向に対して、保守的な法律家の間では、「近頃のマスコミには常識がない」という強い抵抗が芽生え始めている。「何とかしなければならないのではないか?」という風潮が一部にはあるようだ。このことは、わたしに言わせると、ニュージャーナリズムなり、ノン・フィクションなりについての理解の不足が原因の一 端をなし ていると言えなくもない。
いずれにしろ、著者の側には「言論の自由」という憲法上の保障があり、これと、同じく憲法上保障されている個人のプライバシーの保護とのかねあいの問題が大きくクローズアップされてくるわけだ。
このことが、現在のニュージャーナリズムをめぐる法律問題の中心課題なのである。
ところで、ドキュメントの中で扱われた人物が死者であった場合に、問題が複雑になる。
川端康成氏のプライバシーをめぐる『事故のてんまつ』や、広田弘毅元首相について取り扱った『落日燃ゆ』などについて考えてみても、そこには歴史上著名な人物が扱われており、その意味で「歴史上の真実の追及」という著者の側の大義が重要視されなければならない。
一方、歴史上著名な人物には、相続人がいるかもしれないのだ。先祖の名誉を毀損されてはかなわないという名誉感情をないがしろにはできない。ドイツの法律学では、「先祖への追憶」という観念で、この問題をとらえている。
さて、昭和五十五年七月三十日付の「朝日新聞」夕刊によると、
『太平洋戦争直前の新興俳句弾圧事件をテーマにしたK氏のノンフィクション「密告」で、新興俳句の旗手といわれる俳人、西東三鬼が「特高のスパイ」と書かれたことをめぐり、三鬼の遺族が「スパイ呼ばわりは事実無根、無責任な憶測で死者の名誉を棄損した」として、著者のK氏と出版元のD社を相手取り謝罪広告と慰謝料二百万円の支払いを求める訴えを起こした』
という記事が掲載されている。
ここで、またもや「死者の名誉」が法廷へ持ち出されることになったのである。
これについては、刑法に規定が置かれている。
「死者ノ名誉ヲ毀損シタル者ハ誣罔(ふもう)二出ツル二非サレハ之ヲ罰セス」(二三〇条二項)とある。
「誣罔」とは、真実でないことを知りながら、あえて事実を摘示することである。だから、主観的に真実であると信じて公表したものなら、たとえ虚偽であったとしても名誉毀損罪は成立しない。要するに、刑法では、死者の名誉が問題になる場合には、名誉毀損罪の成立に絞りをかけていることになる。
つまり、故意に真実に反した事柄を暴露した場合に限って処罰の対象となるのであって、単なる過失の程度では罰せられないのだ。
だから、こうした事件が法廷へ持ち出される場合には、勢い、民事事件の形をとり勝ちである。故西東三鬼氏の事件も、その例にもれない。
その場合の根拠条文は民法七〇九条である。「故意又ハ過失二因リテ他人ノ権利ヲ侵害シタル者ハ之二因リテ生シタル損害ヲ賠償スル責二任ス」と定められているのが、それだ。
刑法に立場と違う根本的な点は、著者のK氏ならびに出版元のD社の過失までも問われることだ。
故三鬼氏が特高スパイでなかったのを知っていながら、K氏らが故意に「特高スパイだった」と書いたとは考えられないのだから、故意の点は問題外であろう。(もし、故意があれば、刑法の処罰規定に触れるおそれが出てくる)だから残るのは、過失があったかどうかの一点に絞られる。
少し横道にそれるが、先に掲げた民法七〇九条は、いろいろの種類の事件に適用される幅の広い条文なのだ。交通事故、離婚の場合の慰謝料、傷害事件の治療費や慰謝料 - およそ契約関係のない、あらゆる場合の違法行為についての慰謝料や財産的損害の請求権の根拠が、ことごとく、この一つの条文の中に圧縮されている。したがって、この条文に関する判例も膨大であり、名誉毀損事件に限って適用されるのではない。
ところで、民法七二三条には、名誉毀損の場合の特則として、「他人ノ名誉を毀損シタル者二対シテハ裁判所ハ被害者ノ請求二因リ損害賠償二代へ又ハ損害賠償ト共二名誉ヲ回復スル二適当ナル処分ヲ命スルコトヲ得」と定められている。これが、いわゆる謝罪広告を請求する根拠である。
加害者側に謝罪広告を出させることによって、被害者側の名誉回復を図ろうというのが、この条文の趣旨なのだ。
それはさておき、この事件の最大のポイントは何か。著者のK氏らが、社会通念上からみて適切と思われる客観的資料の収集から得た結論にもとづいて、「三鬼氏は特高スパイだった」と書いたか、どうかの点である。
朝日新聞」の記事によると、K氏は「俳句が官憲の弾圧を受けた時代のあったことを知らせようと思った。三鬼氏と同じころに検挙された俳人や事件の関係者を一年がかりで取材した結果、複数の人から特高とのつながりがあるとの証言を得、三鬼氏が心ならずもあのような立場に置かれたとの確信をを持って書いた。四十年近くも伏せられていた事件の真相は、だれかが世に問わねばならなかったと思う」と言っている。
K氏が、昭和十五年から十六年にかけて弾圧された「昭和俳句弾圧事件」の経緯をドキュメントとして取りあげようとした動機の点については、明らかに「公共の利益」を図るためであったことがうかがわれる。だから、動機の点については、ほとんど問題がない。
さて、三鬼氏が特高スパイであったかどうかについて、関係者の証言を求めたとK氏は言うのだが、「あの男は特高スパイだったんだ」という第三者の供述を漫然と鵜呑みにして書いただけなら、これは過失があると認定されてもやむを得ないだろう。関係者たちが、なぜ、特高スパイだったというのか、その根拠は、いったい何であったのか。その点について客観的資料の裏づけが必要である。
もっとも、客観的資料による裏づけといったところで、絶対的真実が要求されるのではない。現時点において収集が可能な資料にもとづき、「特高スパイだった」と断定したのなら、過失はないはずである。それ以上、資料の集めようがなかったというのであれば、やむを得ないことである。絶対的真実というのは、「神のみぞ知る」である。
問題なのは、真摯な態度で真実の追及に肉薄しようとした著者の姿勢なのである。その当時、検挙された俳人たちのうちで、三鬼氏の検挙が遅れ、起訴されなかったことを根拠にして、「三鬼氏も特高当局に協力した一人であった」と断定したのなら、単なる憶測にもとづいた独断であると非難される余地があろう。
では、この場合、どのような取材をしたらよいのか。三鬼氏を取り調べた特高警察の関係者に直接面接し、事実を確かめるとか、当時の捜査資料を入手したとか、そこまでの注意義務を払ったのなら、著者の側に何らの過失はない。仮りに、それが真実でなかったとしても、そこまでの注意義務を払えば著者の側には過失がないとみるのが、通常の法律家の判断であろう。
新聞記事だけでは、著者のK氏が、どのような取材をしたのか、詳しくは判明しないのであるが、今後、法廷で、その点が大いに争われるはずだ。
ところで、もし著者のK氏が、法律上要求される充分な注意義務を払って「特高スパイだった」と著書に書いたことが証拠上明白となった場合、訴えられたK氏としては、どのような対抗手段があるのか。
訴えた原告の側に、不用意に訴えを提起した過失があった場合、逆に被告のK氏から原告に対し、損害賠償あるいは謝罪広告の請求をすることも可能である。現にそうした実例がある。
いずれにしろ、双方とも、充分な客観的資料にもとづいて著書を書き、一方では名誉毀損を理由に訴えを提起したのなら、最後まで徹底的にみずからの信念を貫くべきであろう。自分に自信がなければ書いてはならず、また訴えを起こしてはならないのである。つまり、著者の側にも、訴えを起す側にも充分な注意義務が要求されるわけである。