(巻十九)風花やライスに添えてカキフライ(遠藤梧逸)

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6月7日木曜日

今日から巻十九であります。この巻が終わる九月の末には生活環境も大分変わってくるでしょう。
暑い盛りでありますけれど、定期券のあるうちに写真の場所あたりから都内未踏の地を巡り冥土の土産に致そうか。

ひと魂でゆく気散じや夏の原(葛飾北斎)

定期財布ハンカチ小銭入立夏(川崎展宏)

ルールとして帰宅予定時間をメールすることになっているのですが、今日は飲み屋のテレビで袴田事件を報じていたので腰を落ち着けてしまった。
6時帰宅と一報を入れていたが、30分遅れることになり、“30分くらい遅れます。”と修正メールを入れた。
帰宅したらどこでフラフラしていたのだと結構問い詰められるかもしれない?

幸い、“遅れる”を電車の遅れと勝手に勘違いしてくれて詰問なしでした。

さみだれや船がおくるる電話など(中村汀女)

作家の随筆などをコチコチとガラホに打ち込んでいます。今日は以下を含む安岡章太郎の文章を写した。このコチコチは暇潰しと云うか、自分から自分を取り外すには目下最良の方法であります。
読むだけではだめなのです。そこに作業が入ることで一層自分のくだらない思考(心配、杞憂、苛立ち、後悔など)の一人相撲が止まってくれるのです。一心に写経という手もあるのでしょうが、まだそこまでは解脱できていませんので、このあたりの作品がよろしいようです。
作品の内容もそうですが、コチコチには文体や文の流れ方が好みに合っていることが肝要であります。
昼は安岡章太郎氏の文章をコチコチし、自宅では坂口安吾氏の文章をコチコチしていますが、安岡章太郎氏の方が文章としても好きです。

しかし、いずれの作品でもコチコチしている間は忘我の境地に浸ることができるのです。
修行を重ねていずれは“無我”へ?


「水の流れ 永井荷風文学紀行 - 安岡章太郎」 講談社刊 歳々年々 から


しかし「?東綺譚」の成功は、必ずしもそこに玉の井の私娼窟が精密に描かれているからということではなかった。野口冨士男氏は「わが荷風」で、「?東綺譚」の玉の井は多分に美化されているとはいわないまでも、実態がそのまま描かれているとは言い難いとして《「?東綺譚」における永井荷風は風俗作家ではなくて、詩人である》といい、《「むかし北廓を取巻いていた鉄漿溝(おはぐろどぶ)より、一層不潔に思える此溝」まではえがいても、お雪を「ミューズ」にたとえるために屎尿(しにょう)や洗滌液の異臭を回避せねばならなかった。迷路の狭隘さはつたえても、舗装のほどこされていないぬかるんだ路面の描写は意識してかわす必要があった。人間としての荷風玉の井 という猟奇的で淫靡な地帯に舌なめずりせぬばかりのしんしんたる興味をおぼえながらも、作家としては夢と詩をはぐくむことに専念したのである。》と述べている。私も、これにはまったく同感である。荷風は、吉原にも同じく過ぎ去った世界の夢を託そうとしていたに違いない。その詩的な感慨は当時の日記のいたるところにちりばめられており、いちいち引用のいとまもないくらいだ。.......しかし、いかに主観的に詩情をのべるといっても、その詩情を引き出す何かが現実のなかになくてはかなわぬことだろう。

https://blogs.yahoo.co.jp/nprtheeconomistworld/37736898.html

https://blogs.yahoo.co.jp/nprtheeconomistworld/37736899.html




「悪妻論 - 坂口安吾」角川文庫 堕落論 から


女大学の訓練を受けたモハンの女房が良妻であるか、そして、さような良妻に対比して、日本的な悪妻の型や見本があるなら、私はむしろ悪妻の型の方を良妻なりと断ずる。
洗濯したり、掃除をしたり、着物をぬったり、飯を炊いたり、労働こそ神聖なりとアッパレ丈夫の心掛け。けれども、遊ぶことの好きな女は、魅力があるにきまっている。多情淫奔(いんぽん)ではいささか迷惑するけれども、迷惑、不安、懊惱(おうのう)、大いに苦しめられても、それでも良妻よりはいい。
人はなんでも平和を愛せばいいと思うなら大間違い、平和、平静、平安、私はしかし、そんなものは好きではない。不安、苦しみ、悲しみ、そういうものの方が私は好きだ。私は逆説を弄しているわけではない。人生の不幸、悲しみ、苦しみというものは厭悪(えんお)、厭離(おんり)すべきものときめこんで疑ぐることも知らぬ魂の方が不可解だ。悲しみ、苦しみは人生の花だ。悲しみ苦しみを逆に花さかせ、たのしむことの発見、これをあるいは近代の発見と称してもよろしいかもしれぬ。