(巻十九)差引けば仕合はせ残る年の暮(沢木五十八)

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6月12日火曜日

“年の暮”あたりまでは貸方残で繰越になろうが、永ければ長いほど食い潰すわけだから最期の帳尻が問題なのであります。

長生きもそこそこでよし捨扇(副島いみ子)

今朝はめずらしく運転席の後ろに立てました。
6時50分ころに上野駅10番線ホームに入線する常磐線中距離電車です。
この時間ですとまだ車内でスマホをいじれる余裕はありますが、北千住からの乗車ではこのような好位置に立つことはなかなかできません。
終着駅にゆっくりと入り、ホーム上の交代乗務員、駅員から敬礼を受け、車内清掃員や女性CAから礼を受けながら減速し、停車するまでの儀礼はなかなか優雅なものでございます。

敬礼の上手と下手は生まれつき(藤後左右)

昼休みを勝ってに少し長く取って、
『水の流れ 永井荷風文学紀行 - 安岡章太郎
のコチコチを終った。
永井荷風の文章はいいのだが、それはそれとして安岡章太郎の文章も素晴らしい。
この作品の中で、


《〇浪花屋老婆の談に曰く、むかし京町一丁目裏に在りし料理屋金子と、柳嶋の橋本および浅草田圃の大金と、この三軒は同じ棟梁の建てたる普請なりと。此説に拠るところ或るものの如し。余金子の家屋は能く記憶せざれど、橋本大金の二軒はよく知りたり。大金は二階立てならず、橋本は川にのぞみ建てられたり。清洒軽快なる其家づくりは当時人の称する所、小林清親の名所絵にもあり。写真にもうつされたり。之を今日の破風(はふ)造りの二階に比すれば一見して都人の趣味の相違を知り得べし。一は京伝南畝の散文の如く、一は現代文士の文の如し。》(七月十二日「日記」)
これを文明批評として見れば、「冷笑」以来、相も変らぬ千篇一律のグチに過ないであろう。今日の東京の建築物がいかに醜いかは、拙劣な文章しか書き得ない私たちも知っている。

荷風に一歩譲ってはいるが、安岡章太郎氏の文章はこれまた素晴らしくコチコチしながら嬉しくなった。

時間が過ぎて帰途についた。亀有駅を降りたところで、

改札の先に道なし大夕立(丸山清子)

であった。
なに、夕立である。10分ほど軒下で世の中を見ていたら雨はあがった。