「読むことと書くこと(一部)- 井上ひさし」 新潮文庫 自家製文章読本 から

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「読むことと書くこと(一部)- 井上ひさし」 新潮文庫 自家製文章読本 から
 

昭和五十八年の正月、筆者は衰運のどん底にあった。たとえば知らないうちにウイルス性肝炎(A型)にかかっていた。が、その肝炎の症状を風邪の症状と勘ちがいしたまま芝居を書きつづけ、結局は箸にも棒にもかからない駄作を出来(でか)してしまった。そんな駄作に俳優や観客をつきあわせるのはほとんど犯罪にひとしい。そこで戯曲を破棄処分にした。損害賠償のために現金で二千万円支払ったのは当然のむくいだからそれは云わないとしても(と云いながらちゃんと云っているところはわれながらシッカリしているが)、そのあとはしばらく病院通い・・・・・。そこで『易経』を抱えて通院したり入院したりしながら、自分のための八卦見を志したのだが、つまるとこ ろ印象に 残ったのは、易 経の総論といわれる「繋辞(けいじ)伝」の中の次の文章である。

書(しょ)は言(げん)を尽(つ)くさず 言は意(い)を尽くさず。

鈴木由次郎博士によれば、書は文字のこと、言は言語のこと、そして意は心に思うところ、思想や感情のことだそうで、そこで通釈文は次のようなことになる。
「文字はいくら詳しくこれを書いてもことばで述べることを余す所なくなく書き尽くすことは不可能である。言語はいくら詳しくこれを述べても心の中に思っているところを遺憾なく述べ尽くすことはとうていできない」
これはかなり強烈な言語無力説である。東洋の言語観には禅宗の「不立文字(ふりゆうもんじ)」をはじめとしてこの言語無力説を底に敷いているものが多いようだ。もちろんこれとは逆の立場の言語言霊(ことだま)説も強力であって、筆者自身も腹が立つと、つい「畜生!」とか「くたばれ!」とか叫んでしまう程度には言語言霊説を実行している。だが改まって、「ことばが万能か」と自分に問えば、即答はできない。いや即答どころか一生考えても答えは出そうにない。つまりその程度は言語無力説を信じているフシがある。もっときびしく云えば、定見がない。定見がないままに、言語無力説にちょっと重心をかけている。これが正直なところである。ちかごろは西洋の学 者や思想 家も、東洋のこの言語無力説を容れて、たとえば「ことばに先立って存在する沈黙」に注目する傾向がみられる。「沈黙の思考」(D・ケーラー)「沈黙のことば」(E・T・ホール)「暗黙知の次元」(M・ポランニー)「ことばなき概念」(人類学)・・・・・・、いずれも「はじめにことばありき」という西洋の言語神授説からの脱出の試みといっていい。そこでこちらとしては「西洋の知がいよいよ行き詰って、関心がわが東洋に向いてきたか」と気をよくし、言語無力説により重心をかけようとしてしまいがちだが、これはいけない。文章を綴って口に糊をしているのだから、それでは文章様に申し訳がない。かといって言語言霊説の信者になるのもいやである。そこで持ち出したのが、ことばは時間に対 抗するための人間にとって唯一の武器だという説である。この説についてはすでに第一章で述べたので、くどくどは繰り返さないが、筆者はまず、この宇宙での最大の王は「時間」である、と考えた。この王の治世下においては、永遠でありたいと願うことは許されない。だが、人間としては、永遠ということばを発明してしまった以上、やはり永遠でありたいと願わざるを得ない。人間はやがてことばが、いささかではあるが時間を超えることに気づいた。こうして、わたしたちは読書行為に「過去とつながりたい」という願いをこめるようになった。そして書記行為に「できるだけ遠い未来へとつながりたい」という想いをこめた。この二つの行為によって、ヒトが言語を手にした瞬間にはじまり、そして過去か ら現在を経て未来へとつながってゆく途方もなく長い連鎖が見えてきた。しかも読書と書記という二つの行為によって、わたしたち一人一人がその長い連鎖のうちの一環になることができるのである。書かれたものを読むことで過去がよみがえり、よみがえった過去に足を踏まえて未来に向けて書く。このようにしてわたしたちは「時間」と対抗する。この立場から云えば、「書くことは読むことであり、読むことは書くことである」となる。
なにを寝呆けたことをいっているのだ。ことばは絶えず変化しているのだから、そんな連鎖なぞ信じられるか、と思わないでもないけれど、使用頻度の高い基礎語彙ほど変化の速度は遅くなるというから、語彙だけでも連鎖のあとはたどることができるだろう、と楽観している。それに文法規則はより整理されてはゆくものの、その基本部分に変化は生じないのである。もっとも音韻は変るかもしれない。がしかし、ここでは書きことばを問題にしているのだから、音韻は勘定に入れていない。音韻の変化が書きことばに影響を与えることは当然予想されるが、そのためにこそ書きことばがあるのだ。書きことばによって基礎語彙と文法規則とを動きにくいものにし、長い連鎖を成り立たせる ようにつとめるのが、言語共同体の一員としてのわたしたちのつとめだろう。いかにも古くさい伝統主義を唱えているようだが、これは仕方のないことなのである。
では、なぜ仕方がないのか。たとえば「ヤマ=山」という語がある。幼稚園児でさえ知っているにちがいない、なんでもない単語であり、これをわたしたちはなんの感慨もなしに、「この分では山は雪だろう」「山へ行こうよ、娘さん」「国語の試験で山が当った」「宝くじで一山あてた」「やつはいまヤバイ山を踏んでいる」「この映画の山はいま一つだね、弱いよ」「山はさびれる一方だ」「きみの積んだ山にはろくなパイがないじゃないか」などと使っている。ところが日本語文を一行でもお書きになった方なら経験がおありのように、この簡単な、わずか三画の文字の前でアッと胸をつかれて立ち竦んでしまうときがある。この「山」という字をこれまで何人の人間が、いったいどん な思いをこめて書いたことか。そう思った途端に「山」の字は、電飾に仕込んであるかのようにぴかぴか光り出すのである。
ある人にとっては「あの山の向うにふるさとがある」という懐しいものであろう。ある人にとっては「この山を越えて恋人にあうのだ」と心おどるものであったろう。一人息子を遭難事故で失った両親にとってその山は憎い、口惜しい、切ないの塊であったかもしれない。とにかくこのことばにわが言語共同体の人びとが思いのたけをこめてきた。その「山」の字をいま自分も使おうとしている。そう思うとふるえがくる。