「読書とエンピツ - 高橋義孝」文春文庫 教科書でおぼえた名文 から

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「読書とエンピツ - 高橋義孝」文春文庫 教科書でおぼえた名文 から

新聞や雑誌を読むひとは、よほどのことのないかぎり、赤エンピツや黒エンピツを持って、線を引いたり、バッテンをつけたりするようなことはないだろうと思う。切り抜きはよくやるようだが、それも一部のひとの話であろう。ところがまっとうな書物の場合には、エンピツはなかなか重要な役割をつとめる。もっともこのごろのベストセラーなどという本は、エンピツでしるしをつけるだけの手間のもったいないような手軽なしろものが多いから、読んで読みすてにしてしまえるけれども、本らしい本はどうしても読みすてというわけにはいかない。
汽車の中などで読んでいて、エンピツが手もとにない場合、爪でごしごしページにしるしをつけたことがあるが、あとでその場所を探すのに手間どって仕方がないから、やはりエンピツが必要だと思った。ちょっとここはおもしろいことが書いてあるという場合に、エンピツで線を引くというのは誰でもやることだろうが、その際やり方がふたつあるらしい。行の横にタテを引くのと行の上のほうへ横にひとずじ引くのとだ。あとのやり方は、外国人のまねだともいえる。外国の学者の本を見ると、薄いエンピツで行の頭のところにタテにすっと線の引いてあるのによく出会う。感嘆符をつけたり、疑問符をつけたりすることもよくあるようだ。古本を買ってきて、中にセピアのイン クで線が引いてあるのを見ると、ヨーロッパの十九世紀の学者の書斎をちょっとのぞいたような、たのしい気持ちがする。ヨーロッパの学者たちは、どういうものかブリュー・ブラックのインクを好まないようで、セピアのインク、黒インクを好むようだ。なくなった児島喜久雄先生もセピア組、小宮豊隆先生もセピア組らしい。エルンスト・ユンガーは黒インク、トーマス・マンは緑や紫を使う。それから「ここ注意」などという短い文句にぶつかることもあるが、ヨーロッパの学者はそういうきまり文句はたいていラテン語でしるすようだ。しかし忙しいこの世の中に、書斎の机にすわってインクで線を引くというのも厄介だろう。するとやはりエンピツということになる。ところがエンピツで線を引くのにも、 ていねいにまるで定規で引いたように引くひとと、乱暴にぐにゃっと引くひとがある。私は後者に属する。鴎外の読んだ本をみたら、ペンで定規を使ったかと思われるようにきれいに引いてあった。中には見栄で、わざと乱暴に線を引くひともあるようだ。本をきたなくするのは、やってみればわかるが、実にたのしいことである。
さて、ただ線を引いてばかりいてもこまる場合が出てくる。私の場合などむろんそうである。線ばかり引いたが、内容を忘れてしまったということではこまる場合があるのだ。そういうときに、ひとはどうしているのだろうか。私はまずたいていは最初にやたら線を引いておいて、あとでその個所にもう一度目を通す。そしてかんたな言葉でその個所のいっていることを要約す る。その言葉を表紙裏へ書いて、そのあとにページ数を書きこむ。同内容の個所があれば、そのページ数も同一項目の中へ書きそえておくのである。この方法はたいへん便利だ。ことに書評でもしようというときは役に立つ。文を書くときには、その表紙裏だけを開いておいて、そこに書いた文句を見い見い、書くことをまとめていき、引用の必要があればそのページ数にしたがって本文を見ればいい。しかしもう少し手のこんだ場合も出てくる。
少しこみいったというのは論文でも書こうという場合のことだが、そんなとき、私は思い浮かぶかぎりの手持ちの書物を書架から引張り出してきて、机の上に積み上げる。白状すると私の方法は、学問的というよりも文学的だ。つまりあらかじめ頭の中にはっき りとした結論ができていて、それを証拠を並べてかためて行くために諸書を参照するというふうではないのだ。むろんぼんやりとしたことは考えている。およそこうだろうというものはある。しかしいざ論文を書いてみるとあらかじめ考えていたものとは、よほどちがってくるのである。先入主は最小限なのである。
さて積み上げた書物を片端から読みはじめる。ちょっとでも自分の注意をひく個所には遠慮なくエンピツでしるしをつける。そういうふうにして予定した書物を全部読んでしまう。それからしるしをした個所をもう一度読んで、その内容を要約して、大きな紙片に要約の見出し語を書きならべて行って、そのあとに各書の該当ページ数を書き加えて行く。見出し語によってはそのページ数がい くつもいくつもつながるのもあれば、たったひとつしかないのもある。大きな紙片というのは、たいていは原稿用紙を使うが、ノリでつないで四枚にも五枚にもなることがある。そういう整理が終るとこんどがいちばんたのしい仕事である。すなわち幾日かの間、その幅広でタテ長の巻紙をぼんやりと 眺めて暮すのである。このときがいちばんたのしい。論文はまだできていない。これからのやりようによっては、いい論文もできあがろうし、また、くだらぬ論文しか書けないかもしれない。成否の鍵はなおわが掌中にある。しかし綿密に文献にあたるという辛い仕事はすんでいる。ご馳走をならべて、酒のカンのつくのを待っているときのようなものだ。
ところがそのときふしぎなことが起る。たくさんの見出し語たちがそれぞれの内容にしたがって、おのずからグループを形成して行くのである。ただ眺めていれば、それがしぜんとわかる。こっちで手を下さなくとも、先方で自然とグループを形成していく。そうしたら似たもの同士をひとまとめにする。つまり番号で第一組、第二組というふうにわけ る。これができたら、論文は完成したも同然である。紙を展(の)べてその巻紙を片方に置いて、番号順に諸書の該当個所を見ながら、文をつづって行けばよい。使用ずみのページ数は片端から消して行く。
こういう本の読み方のほかに外国の学者がよくやるカード利用の方法もある。本をよみながら項目別の抜書きのカードをつくる。なんであろうと、本の中のテーマにしたがってカードに抜書きまでで、これこれのテーマというふうにこっちできめてかかるのではない。そういう読み方をする人は多いらしいが、私はやらない。いったい私はさきにもいったように学者ふうではなく文学者ふうに読書するから、ここが肝要だというようなところは、カードをつくらなくとも、頭で暗記している。どの本の だいたいどのへんのどちら側のページのどのへんにこういうことが書いてあったというように自然に覚えている。記憶の狂いはあまりない。ぼんやりとした記憶にはちがいないが、実際に本を 開いてみるとぴたりと当るからふしぎだ。しかしこの方法は誰にでも可能ではあるまいし、また、たしかに不確実であもある。学者ふうではないといったのはこの意味である。

近ごろは悪い癖がついて、机の前に正座して静かに読書できなくなり、ゆったりとした姿勢のとれる椅子か、寝床の中でないと読んだことが頭に入らない。寝ているときといえども、短いエンピツはまくらもとにおいているが、いちいち手をのばしてまくらもとのエンピツをさがす。冬など腕が冷たい。しかも本式に本を読みはじめるとエンピツを探して手を持って、本のページに線を引く手間が惜しい。その暇にもっとさきを読みたく思う。とにかく本式に読みだすと、一刻も早くその本を全部読みおえてしまおうとする。いらいらして落ちつかぬ。場合によると、食事などのために読書の中断されるのさえいとわしい。誤解があってはこまるが、それはなにもその本がおもしろいからとい うのではない。おもしろい場合はむろんのことだが、つまらぬ本を読みはじめた場合でもやはりできるだけ早く読み終えてしまわぬと気がすまぬ。なにかこう憑かれたようなふうになってしまう。ときには本を伏せて休むこともあるが、頭は休んでなどいない。いらいらしている。なかなか読みおえぬのを自分で自分に対して憤慨するために休むというような恰好なのである。ずいぶんおかしな本の読み方だと思う。しかし仕方ない。だからニーチェ箴言(しんげん)集のようなのは苦手だ。一行読んで感心してしまって、さきに進めないから、いつまで経っても全部を読みおえることができぬのである。
そんなふうにあせっては読まぬ本も幾冊かある。ではどんな本だときかれるかもしれないが、それは申しますまい。他人のそういう本の名を聞いてもしかたがないと思う。そういう一生の本は、人間がやはり自分の生活の歴史の中で、自分で自分だけのものとして発見して行くものなのだから。いつ、中途のどこから読んでもおもしろいと思われるような本を幾冊か持つということ、そういう本を発見するということ、私はこれを人生の幸福のひとつに数えたいと思う者である。