「齢を重ね贅沢な時間 - 黒井千次」文春文庫 10年版ベスト・エッセイ集 から

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「齢を重ね贅沢な時間 - 黒井千次」文春文庫 10年版ベスト・エッセイ集 から
 

年齢とは生後に経過した年数のことでありそれ自体は数字に過ぎない。そしてこの数字は一方的に増加し続け、減少することはない(一九五〇年に年齢を満で数える法律が施行され数え年が満年齢へと変更になった時だけは減少したけれど)。増え続ける数字はある時、はたと停止する。その後はもう微動だにせず石に刻まれた数の字が残るのみとなる。
つまり、人の生と固く結びついた数字が年齢なのであり、それは抽象的な記号であるというより、生の起伏に結びついた表情と意味を持つ、一種表意文字に似た存在に近い。
たとえば〈5〉とか〈6〉とかいえばまだ幼い子供のイメージが湧く。〈17〉とか〈18〉は青春の輝きや生臭さを帯びているし、〈35〉とか〈43〉は時に疲労の色を滲ませながらも壮年の雰囲気を漂わせ、〈67〉は老いの影を投げて〈77〉は先に残る時間を数える呟きを洩らす、といった具合に。
またたとえば、就職の際の年齢制限、飲酒喫煙の禁止や自由、乗り物運賃の大人と子供の違い、映画館その他各種設備への入場料などにも、この数字の区分による扱いの違いが設けられている。つまりこの数字は、法律面、経済面においても重要な役割を果たしているわけである。
さらにいえば、年齢という数字はただ世間の決まりや扱いについてだけでなく、個々の人間の内面にも深く関っている。

自分のことについていうなら、初めてその問題を意識したのは十六、七歳の頃だった。高校の級友たちと同人誌を作り、小説を書くことに熱中し始めた季節が、大学の受験勉強の時期とぶつかった。問題は二者択一の決断であるように思われた。 -小説を書くための読み書きに集中するか、それとも将来を考えて今は書くことより受験勉強を優先・重視するか。
若い頃の多くの迷いがそうであるように、この考え方はいささか単純に過ぎ、現実味を欠いていた。
実際には一方を拒み他方を受け入れるといった明確な選択は出来ず、受験勉強を優先しつつ、少しでもゆとりがあれば小説を書こうとするといった、妥協的、現実的な姑息な姿勢しかとることが出来なかった。
ただその時、しきりに考えた。一生のうち十六歳、十七歳の時だけにしか書けぬ作品というものがあるのではないか。受験勉強を優先することによって、その貴重な可能性を見殺しにしてもよいものか。十六歳、十七歳という特別の時間を将来のための犠牲に捧げ、手段として扱うことへの疑問は、未だに身の内のどこかに残っている。振り返ってみれば若さ故の身勝手でもあり傲慢でもある悩みに過ぎなかったろうが、しかし年齢を将来のための手段とする姿勢にはやはり釈然とせぬ感がある。
その記憶に触発されてふと考えるのは、七十代後半となった今の年齢にとって、かつて十代にあったような将来のためにという目的を見出すのはもはや難しい、という点である。つまり、年齢はもはや何かを達成するために止むを得ざる手段とはなり得ない。年齢はむしろ、これ以上は先に進まぬことを願う現在そのものの表現に他ならない。

七十代に達した後、更に八十代、九十代の先を夢見ることは必ずしも不可能ではないとしても、それはあまり他人に迷惑をかけずに生き続けようとするような、ささやかな願いにとどまるのではあるまいか。
ここまで来てしまった以上、何かの手段としても役立たず、とりわけ利用価値もない今の我が年齢に正面から向き合い、その中に何が隠されているかに思いを馳せる方がより賢明であるに違いない。
見方をかえれば、そこにあるのは生きるという目的を持ち、その手段をも兼ねる刻々の現在それ自体である。この贅沢な時間を存分に味わうことが許されるのは、七十代を過ぎて更に齢を重ねる人びとの特権である、と考えたい。