(巻十九)地下鉄に息つぎありぬ冬銀河(小嶋洋子)

イメージ 1

イメージ 2

8月12日日曜日

気温は30度前後のようですが湿度が高いので消耗します。気温が35度を超えると活動が鈍る蚊が元気を取り戻したようで買い物帰りの桜並木でずいぶんと仕掛けられました。

コチコチ読書は、

「銀座 ー 岡本綺堂旺文社文庫 綺堂むかし語り から

に着手しました。
綺堂の文章は「震災の記」をコチコチしてこのブログの筆写シリーズの初めのほうに紹介させていただいております。

綺堂がこの随筆で書いている銀座は明治二十五年あたり、19世紀最後の頃の銀座で銀座の創成期のことのようです。
銀座を書いた随筆では、「広告のなかの銀座 - 天野祐吉」をコチコチしてご紹介しています。天野祐吉氏の銀座は戦前の銀座です。
私にとっての銀座は京成電車都営地下鉄浅草線と繋がり大門駅まで走るようになり、東銀座まで30分くらいで行けるようになった昭和四十年以降の銀座になります。
歩行者天国が始まり、大銀座祭りのパレードが始まったりしていて銀座の再登場といった感があった頃でした。
デパートも三越松屋松坂屋があり、西銀座には阪急ができ、ダイエー系の怪しげなのも店開きしていました。
デパートにも行きましたが映画館にも行きました。東銀座の方から東劇、松竹セントラルがあり、三原橋あたりにちょっと場末の雰囲気の邦画、エロ映画館がありました。銀座通り沿いには一丁目の端にテアトル東京がありました。テアトル東京は私にとって人生の一大事映画館です。ここでスーザンと「エイリアン」を見て、東急ホテルで軽く飲んで、有楽町駅まで歩き、駅のベンチで手を繋いでいたら、「お部屋においで」と言われ、男にしていただきました。そうそう名画座もありました。並木通りに並木座があり、みゆき通りにはみゆき座がありました。バブルまでの銀座はどの店も開かれたお店でした。
これが今世紀に入ってからブランドショップの銀座進出で様子が変わりました。
誰でも入れた店構えは、重厚なドアーと客は店が選ぶと顔に描いてある門番によりその前を通るのさえ不快な通りに変わってしまいました。
ブランド意識は日本の老舗にも伝搬し、店の間口と往来との間に立派な遮蔽物を構築するに至っております。
店先をのぞきながらブラブラと歩く、“銀ブラ”はもはや死語であり、現在はそのような手軽な行楽をネット・サーフィンと郊外のモールが担っているのでございましょう。銀座は遠くなりにけりでございます。

在庫に銀座関連を探しますと、

したたかに水打つ間口一間半(鈴木真砂女)

地を潜り銀座の針魚(さより)食いにけり(高見勝)

手相見の銀座の隅の寒灯(村松五灰子)

春惜しむ銀座八丁ひとはひと(中里恒子)

昼飯のあと、図書館に随筆を探しに参りました。コピーした作品は三作です。

貧の功徳-出久根達郎
半隠遁の美学を貫く-中島義道
人間臨終愚感-山田風太郎

山田風太郎氏はこの作品の中で、死に際の金の心配と同じくらい重要な問題として、
「金の心配と同様、死にゆく人間を以外に悩ませるのが糞の心配である。」
と一節を書き始めています。
いずれにコチコチしてご紹介いたしますが、お急ぎの方へ:

奥付けは

『半身棺桶』著者山田風太郎、発行所-徳間書店
一九九一年十月三十一日第一刷

となっております。