「2/3私のウイスキイ史 - 山口瞳」河出書房 人生論手帖 から

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「2/3私のウイスキイ史 - 山口瞳」河出書房 人生論手帖 から

ストレイトで飲むべきもの

昭和二十年五月二十五日、東京大空襲のとき、南麻布に住んでいたのだが、最後の最後まで消火につとめ、どうにもならなくなって有栖川公園へ逃げた。いまでも不思議にも滑稽に思っているのだが、私は一本の柄杓を手にしていた。金目のものは幾らでもあったし、柄杓なんか何の役にも立たないのがわかっているのに。
ところが、私は、逃げる前に、サントリーの角瓶を池に放り込んでいた。軍需成金であった私の家には貴重だったサントリー角瓶が箱(ケース)で置いてあった。そのうちの一本である。自分では大手柄のつもりだった。
夜が明けて家へ戻ると一面の焼野原だった。お向いの後に最高裁の判事になった小林俊三先生の家も丸焼けである。
私は小林先生にウイスキイの話をした。一献差しあげたいというのも妙な話だが、小林先生は大層喜ばれた。焼跡に立ってウイスキイを飲んだ。小林先生は酒好きではなかった。しかし、ともかく体だけは無事であったことを祝おう、自分を励まそうという気持があったには違いない。その小林先生がコップのウイスキイをがぶっと飲んだあと、見るも無残なしょっぱい顔をされた。少し遅れて飲んだ私は、あッと叫んで吐きだした。瓶に池の水が浸入していた。私は、アイディアはいいのだが詰めが甘いのである。ナマグサイ。金魚の味がした。
日本内地の軍隊で終戦をむかえた私は、家へ帰ると、いっぱしの酒呑みになっていた。家に軍需成金の名残りがあったから、米軍兵士が何人も遊びに来たりしていて、ウイスキイは主にフォアローゼズを飲んでいた。
すぐに小さな出版社に勤めるようになるのだが、目白駅近くの屋台でバクダンと称するものを飲んで百米(メートル)も駈けだすとグデングデンに酔うことを知ったりした。肴は黄色く着色されたタクワン一片だったのだから、貧しいとか哀れとかの段階ではない。間借りしていた部屋で、朝起きると目が開かないことがあった。実際に、メチルアルコールで失明したり死んだりした人もいたのだ。
それでも新宿のハモニカ横丁などは賑わっていた。毎晩喧嘩が絶えない。そこへ飲みに行くのは喧嘩場へ行ってみるといったような緊張感があった。ビイルを注文すると、カウンターの客(カウンターだけの店がほとんどであったが)が一斉にこっちを見た。ビイルは高級で贅沢な酒だった。可笑しいのは、痛飲したあと、お汁粉屋へ行ってズルチンのお汁粉を飲む客が多かったことである。体が甘味を欲していたのか。また、これがウマイんである。新宿には、ちゃんとこういう深夜営業の喫茶店があった。
若い編集者の集まりがあって、たまたま手に入ったサントリー・オールドをぶらさげて会場へ入ってゆく、一瞬静かになったあと、響(どよ)めきが起った。オールドにはそれくらいの権威と力があった。
その頃、五味康祐さんがジョニー・ウォーカーの黒ラヴェルを飲ませてくれた。いくらか奇矯の一面のある大流行作家は私を可愛がってくれた。五味さんの家へ行くと、将棋の二上達也八段(当時・現将棋連盟会長)がいて飛角落ちの稽古将棋を指していた。
「ヒトミちゃん、飲んでくれよ」と五味さんが言ってジョニ黒とタンブラーとを私の前に置いた。当時のジョニ黒の権威たるや、これもちょっと言葉にならない。
五味さんなら許してくれるだろうという甘えがあり、将棋に夢中になっているのをいいことにして、私はタンブラーになみなみとウイスキイを満たして、一気にあおった。そんな飲み方をしたのは、それが最初で最後である。また、これまでウイスキイをこんなに美味いと感じたことはなかった。またまた陳腐になるが、真実(ほんと)の美酒がこれだと思った。ウイスキイはストレイトで飲むべきだという私の信念は、いよいよ鞏固になった。