2/2「鮪を食う話 - 北大路魯山人」中公文庫 魯山人味道 から

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2/2「鮪を食う話 - 北大路魯山人」中公文庫 魯山人味道 から

まぐろ通から存外等閑に付されているものは、大根おろしである。
「この大根おろしはいけないや、もっと生きのよい大根をおろしてくれないかなあ」
と言うような方は滅多にいない。わさびのことは、色・辛さ・甘さ・ねばりなどをやかましくいう食通はあるが、大根おろしの苦情を聴くことは、ほとんどない。ところが、まぐろとか、てんぷらというものは、おろしのよしあしで、ずいぶん風味に大なる影響があるものである。てんぷらなどは畑から抜きたての大根のおろしがあれば、油の少しわるいくらいは苦にならぬものである。抜きたての大根で、辛味が適当であれば、まぐろなどはわさびの必要がないくらいである。大根がわるいからわさびが入用だが、元来、わさびはまぐろに好適というものではない。おろしさえよければ、わさびはなくもがなである。
握りずしのように、全くおろしを用いない場合は、ぜひともわさびは必要であることは論を俟たない。故にまぐろのすしは、涙がぼろぼろこぼれるほど、さびの利いたのをすし食いは賞美する。ところが羊羹のような赤身は脂肪分が少ないからさびが利くが、中脂肪以上、トロなんという脂肪のきついところになると、さびの辛味は脂肪で跳ね飛ばされて一向に辛くない。屋台店などに立つすし食いは「さびを利かしてくんな」と馬力をかけるが、すし屋の方では、まぐろの安いときは、さびの方が高くつく場合があるから、こんな連中ばかりやってきてはやりきれないが、「さび無しで・・・・」なんていう衛生的食道楽もあるから、埋め合わせはつくというものである。
しかし、まぐろはちょっと臭い癖のあるものであるから、この場合もぜひしょうがの酢漬けだけ添えて、いっしょに食べたいものである。私の食い方なぞは、さびの利いた上に、しょうが二、三片ぐらいをすしの上に載せてやる。すしは酒の肴としてずいぶん用いられているが、どうもまぐろは酒の肴として好適ではない。これは飯のものである。だから、握りずしで食うのが第一、熱飯の上に載せて食うのが第二である。まぐろの茶漬けなぞも通人のよろこぶものである。(まぐろの茶漬けというものは、炊きたてのご飯の上に、まぐろを二切れ三切れ、おろし少々載せて、醤油をかけ、その上から煎茶の濃い熱いのを注いで食うのである)事実、東京において消耗されるまぐろの七分通りは、すしの原料とされて いるようである。
元来、東京の自慢であるたべものは、概して酒には適さない。すし、てんぷら、そば、うなぎ、おでん、いずれも酒の肴としては落第だ。おでんで飲む向きもあるが、これは他に適当な酒の肴がない場合だ。まぐろの消費量の七分はすしに使うと言ったが、もちろんそれは夏過ぎて涼風が立ち、だんだん冬に向かうようになってからのことであって、夏のしびまぐろは、大抵切り身となって魚屋の店頭を賑わすのである。魚河岸における一日約一千尾の大まぐろは、大部分が焼き魚、煮魚として夏場のそうざいとなるのである。もっとも冬場でも、まぐろの腹部の肉、俗に砂摺りというところが脂身であるゆえに、木目のような皮の部分が噛み切れない筋となるから、この部分は細切りして、 「ねぎま」というなべものにして、寒い時分、東京人のよろこぶものである。すなわち、ねぎとまぐろの脂肪とをいっしょにして、すき焼きのように煮て食うのである。年寄りは、くどい料理としてよろこばぬが、血気壮んな者には美味いものである。
聞くところによると、いわゆる朝帰りに、昔なら土堤八丁とか、浅草田圃などというところで朝餉に熱燗でねぎまとくると、その美味さ加減は言い知れぬものがあって、一時に元気回復の栄養効果を上げるそうである。また脇道に逸れたが、男の美味いとするまぐろの刺身の上乗なものは、牛肉のヒレ霜降りに当るようなもので、一尾の中、そうたくさんあるものではない。胴回りで言えば、砂摺りと背に至る中間、身長で言えば、頭の付け根より腹部の終りぐらいまでのところを中トロとしてよろこぶのである。ここばかり食うのには、特別投資を必要とするわけである。婦人はと言うと、これは羊羹色の脂身の少ない部分、男が食べて美味くないと言うところをよろこぶ。これは体質の相違だろうから、一概に 女をわからず屋とするわけにはいかぬ。男だって、鮎は照り焼きにかぎるとか、にしんや棒だらなんて人間の食うもんでない肥料だ、なんて言う向きもなきにしもあらずだから。
まぐろの食い方に雉子焼きというのがある。これはまぐろの砂摺りを皮ごと分厚に切って付け焼きにするのである。体中で一番脂肪に富んだところであるから、焼くのがたいへんだ。家の中で焼こうものなら、家中煙ってしまう。しかし、焼きたてのやけどするようなものを、大根おろしをたくさんおろして、醤油をかけて炊きたての飯で食うと、空腹のときなどは、飯が飛んで入るものである。下手なうなぎよりか、よっぽど美味い。しかし、壮年のよろこぶ下手美食であることは言うまでもない。
下手と言えば、まぐろそのものが下手ものであって、もとより一流の食通を満足させる体のものではない。いかに最上の宮古まぐろと言ってみても、高の知れた美味にすぎない。以上挙げた以外にも、まぐろ類には値段の安い白色肉のめかじき(切り身用)、同じく白肉の黒皮、この黒皮まぐろは肉太で、八、九十貫もあって値も安い。また、白皮まぐろ、これは銚子、三陸方面に漁獲のあるもの。また、おかじき、まかじき、大きさ三十貫止まりのもの、二十五貫、六貫止まりの夏きわだ。最下等品の眼の大きい横太なめばち。なお、中めじ、大めじ、平めじなどと言うものなどについては、折を見て物語ることにしよう。