1/3「もの食う女 - 武田泰淳」文春文庫 もの食う話 から

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1/3「もの食う女 - 武田泰淳」文春文庫 もの食う話 から
 

よく考えてみると、私はこの二年ばかり、革命にも参加せず、国家や家族のために働きもせず、ただたんに少数の女たちと飲食を共にするために、金を儲け、夜をむかえ、朝を待っていたような気がします。つきつめれば、そのほかにこれといった立派な仕事何一つせずに歳月は移り行きました。私は慈善家でも、趣味家でもありませんが、女たちとつきあうには、自然、コオヒイも飲み、料理も食べねばならず、そのために多少の時間と神経を費ったものですが、社会民衆の福利増進に何ら益なき存在であると自覚した今となっては、そのような愚かな、時間と神経の消費の歴史が、結局は心もとない私という個体の輪郭を、自分で探りあてる唯一のてがかりなのかもしれません。
私は最近では、二人の女 性とつきあっていました。二人とも貧乏な働く婦人でした。弓子とよぶ女は新聞社に勤め、房子という女は喫茶店ではたらいていました。弓子は結婚の経験もあり、大柄な、ひどく男をひきつける顔だちで、男とのつきあいも多く、私はすっかり彼女にほれこんでいました。私は暑い夏のさかりに、わざわざ有楽町の新聞街へ出かけ、物ほしそうな顔つきで、受付の女の人に電話をかけてもらっては、あわただしく彼女に会っていました。ところが弓子は仕事が多忙な上に、飲食を共にすべき男たちが多く、又多少気まぐれな、何をやり出すか見当のつかない方であるため、私は度々苦しい想いをさせられます。「只今外出です」「人日はお休みです」「今さっき帰りました」と受付に言われたり、約束の時間を二度 も破られたりすると、私はたまらなく心が重くなり、腹もたち、淋しくもなりました。いい年をして女につきまとっている、しかもあらゆる鋭い神経と充実した精力が、ビジネスと享楽の機構の上を、キラキラと金属的にかがやきながら、とびまわり、のたくっている東京の中央区を、まるで時代ばなれした男がそうやって歩き回っている。そう想うと私はなおのこと暗く気分が沈みました。愛されているようでもあり、まるで馬鹿にされているようでもあり、弓子のあたえるこの種の不安の日々が、私を、房子に近づけました。
房子は、神田のかなり品の好い喫茶店で、昼の十二時頃から、夜の十時ごろまで立ち働いているので、自由に気楽に会いに行けます。新聞社の玄関の無情なまでに頑丈な壁や柱や石段と 、そこに出入する元気の良い男女の足どりに圧倒され、おびやかすようなガード下の騒音や、あまりにも巧な交通巡査の手つきや、闇あきないの青年たちの眼くばせの波を逃れて、しずかな、くすんだ木組で守られた、その古本屋街の喫茶店に入るとまずホッとしました。自分が一人前の存在にたちかえったようで、腰が椅子におちつきます。
房子は、日本風に言えば洗い髪、西洋では中世の絵画に見られるように長い髪をダラリとしていました。小柄な身体で、グラスをはこんで来て前こごみになると額と頬が半分、黒髪にかくれました。色白でフックラした顔は弓子にどこか似ていますが、少しぼんやりしたようにして少女のようにおとなしくしていました。いつも素足で、それに赤と黒といれまじったような 色のスカートがいつまでもとりかえられることがありません。ブラウスも、このスカートの色をうすくしたようなのが一枚、黒い支那服のもの一枚しかありません。とてもひどい貧乏なのです。傘がないので、雨のはげしい日は家並の軒づたいに走って店へ出るのです。だから時々、髪や服がまだ湿っていて、身体全体が疲れて見えることがあります。古道具屋で買ったというサンダル式の靴もこわれていて、片方は黒い紐で足首に巻きつけてあります。いつか、私がそれに気づかずにいた頃、私の家へ訪ねて来ても、上がろうとしないことがありました。多分、黒い紐をほどいたり、巻いたりして手まどるのが恥ずかしかったからでしょう。
この房子のとこに居ると、弓子のおかげでいら立った神経がおさまりま した。それに房子は私を好いていました。おとなしい、金に不自由な客が多く、酒はだしてもサービスの必要はなし、いかにも「働いている」という感じで彼女は無言で働きまわっています。向うから話しかけることもない。それで私は彼女の気持ちがわかりました。
私が弓子に会えないでムシャクシャして、久しぶりでその喫茶店へ出かけ、隅の席に腰をおろすと、彼女はすぐお辞儀をしてから注文をききます。それから勘定台の向う側のボーイに「わたしにもドオナツ一つ下さいな」とたのみます。ガラス容器の中に、チョコレートなどと一緒に並べてあるドオナツをボーイが一つつまみ出してくれる。すると彼女は私の方へ横顔を向けたまま、指先でつまんだ上等のドオナツに歯をあてるのです。よく揚った 、砂糖の粉のついた形の正しいドオナツを味わっている。その歯ざわりや舌の汁などがこちらに感じられるほど、おいしそうに彼女はドオナツを食べます。まるでその瞬間、その喫茶店の中には、イヤこの世の中には彼女とドオナツしかなくなってしまったように。私が来たという安心、そのお祝い、それから食べたい食べたいと想いつめていた欲望のほとばしりなどで、彼女は無理して、月給からさしひかれる店の品物を食べてしまうのです。それには恋愛感情と食欲の奇妙な交錯があるのです。
「食べることが一番うれしいわ。おいしいものを食べるのがわたし一番好きよ」
はじめてのあいびきの際、彼女は私にそう言いました。代々木の駅でまちあわせ、神宮外苑まで歩き、池のそばの芝生にねころぶとすぐ彼女はそれを告白しました。その日、彼女の白靴はまだこわれていず、支那風の黒いブラウスを着ていました。(後でわかったのですが、彼女は画家のモデルになり、これを着て油絵にかかれて、そして完成の後それをもらったのです。)彼女の告白は、もちろん、しちめんどうくさい話をやめて早く御馳走して下さい、という要求のあらわれです。「食欲が旺盛なのはいいな」私はこんな簡単な要求をみたすことで女が喜ばせ得るのかと、単純痛快な気持がしました。複雑な男女関係であえ いでいる弓子は決してこんな要求はしなかったからです。彼女はいつも、「食欲がないのよ」と訴えていました。寿司を食べるとジンマシンをおこし、支那料理のあとで冷水をのむと腹痛になりました。房子の方は身体も小さく、肉づきがとくによくもなく、赤ん坊のような弱々しいところがあるのに、実に嬉しそうにして食べました。私はビールを飲みながら、房子がたちまち三皿の寿司をたいらべるのを眺めていました。それはムシャムシャという感じではなく、いつのまにかスーッと消えてしまった風でした。太宰治の『グッドバイ』に出てくるカラス声の美女も精力的に食べて主人公を困らせましたが、房子の場合、少しもイヤな感じは起させません。酒も飲みました。そして酔いません。「わたし、酔っぱ らうと物を投げるくせがあるのよ」と自慢そうに言うのですが、ウソではなさそうでした。「Tさん、食欲ないの」「あるよ」「いろんなもの食べて楽しくない?」「....別に楽しいということはない」「これ食べていい?」「うん、僕は飲むと食べたくないんだ」