(巻二十)寒晴れや観音様の薄き胸(山尾かづひろ)

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10月17日水曜日

一通りの家事活動のあと、床屋へ行った。先月までは亀有駅構内のQBで刈ってもらっていたが、構内にあるので今は入場券を買って入らなければならない。それも馬鹿馬鹿しいので近所の床屋を比較検討していた。
理容組合に入っている普通の床屋、つまり調髪に加え顔剃りと洗髪、肩なんぞまで揉んでしまう床屋は3700円らしい。そのような床屋へはもう30年近く入ったことがないし、木の葉髪には勿体ない。

木の葉髪一生をかけしなにもなし(西島麦南)

新道にある床屋は“平日65才以上1500円”と貼り出していた。顔剃りと洗髪はあるのか分からない。
そしてもう一軒、曳舟川親水公園通りのカット専門店は980円と唱っていた。
今日はそのカット専門店に入ってみた。
店の構えは写真の通りだが、中は物置のような“素朴”さで椅子さえ何となくぎこちない。客はおらず、金髪に染めたショ-トカットの婆さんが奥から出てきた。
発券機に千円入れて券を買う。お釣りは婆さんからの手渡しである。
“どうします?”
と来たので、
“これで一ヶ月くらいだから、元に戻して。”
とお願いした。
バリカンを使って手早く裾を刈り、鋏で上の方を摘まんで10分程度で仕上げてくれた。
居眠りする暇などない!
印象として、QBよりも遥かに雑であります。

髪刈つて軽き頭やうそ寒し(長谷川回天)


床屋から図書館に廻り英字紙の拾い読みをしたが、コチコチしたくなる記事はこの三日分にはなかった。
図書館を出てタバコやの前の灰皿で一服していると猫が通りかかった。懲りずにちょっかいを出してみた。
毛並みもよく、飼い猫だろう近寄ってきた。キャット・スナックの持ち合わせもなく、そばで写真を撮らせていただくまでにしておいた。

細君は私の頭を見るなり、“ほとんど坊主頭ね!今度は1500円のところにしなさい。”との仰せであった。

煩悩の頭剃りかね昼寝する(佐藤愛子)

今日のコチコチ読書、

和文

伊勢神宮の今日的な意味 - 曽野綾子新潮文庫 百年目 から

を読み終えました。伊勢神宮についての基本的な知識を授けていただきました。
女史の文章と資料からの転記が混ざりあっている作品でした。女史の余計な文章がないと、やはり読む気にはならなかったと思いますから、余計ではなかったのでしょう。
このあとに貼り付けておきますのでお読みください。

女史の作品が終わりました。才女は縛ってローソクを垂らして折檻して頂こうと団鬼六先生にご登場願いました。

「牛丼屋にて - 団鬼六ちくま文庫 お~い、丼 から

残念ながら『花と蛇』のような作品ではなく、どちらかと云えばこの作品は人情話です。一生を通じて(十六歳以降今日まで)お世話になった団鬼六先生の作品ですから、しっかりと“シコシコ”、ちがうちがう、“コチコチ”しながら読ませていただきます。

英文、

Europe’s history, written in ice - by Hannah Hoag NYT September 19, 2018 氷に閉じ込められている自然の歴史

を読み始めました。氷河をドリルして氷柱を取り出し、氷柱に含まれている花粉などから気象・天変地異を歴史的に確定しようとしている科学者の話のようです。

1/2「伊勢神宮の今日的な意味 - 曽野綾子新潮文庫 百年目 から

先日、伊勢神宮の参拝をしないか、という話が出た時、たちまち何人かの希望者か集まって、私もその一人であった。勤務先の職員の一人が神職で、ただの観光ではなく、詳しく説明が与えられるなどという機会はそうそうあるものではない。ちょうどその期間日本を訪れていたイエズス会のインド人神父にも、日本の神道に触れてもらいたかったので、私はその人の分も会費を払い込んだ。
日程もすっかり決まった後になって、森総理の「神の国」発言が出た。朝日新聞は、鬼の首でも取ったようにその言葉にいきりたって、来る日も来る日もそのことばかりを書き続けたのがおかしかったが、お伊勢まいりの日を変える理由はこちらにはない。神父も私もカトリックだから、神道ではないのだが、それでも信仰のある者はすべて神仏に対して常に静かな関心を持って当然なのである。
今度の団体旅行には、神道に詳しい学者の先生もおられて、私のような異教徒の「生徒」の方が人数から言うと少ないような気さえしたが、それだけに私の感動は実に大きなものがあった。私は今までキリスト教ユダヤ教、ヒンドゥ教、イスラム教が中心の社会をかなり見たが、これらの宗教を信じる膨大な地域は、すべて神の国である。アフリカにはそれらのどの宗教にも入らない原始宗教がまた各地にあって、神のいない人などいないのではないか、と思われる。先進国以外、世界がまだ「神の国」だらけであるから、途上国を差別して、神の国と思う人は迷信で遅れた人たちだと言っても差し支えないのなら、神の国というのは野蛮だと騒いでもいいのだが、人間の思想と信仰の自由は認めるというのなら、こうした強固な神の国意識は、日常の抜きがたい観念として、また地球上をべっとりと覆っているという感じである。
私は幼いころ、つまり半世紀も前に、父母に連れられて伊勢神宮に行った時の、内宮の五十鈴川のほとりの清流がどうなっているのかを見るのが楽しみであった。そのきれいな流れの畔にしゃがんで手を洗ったことが、最大の強烈な印象だったのである。私は多摩川の傍で育ったので、小さい時にはよくメダカをすくいに行ったりして、川のある生活には馴れていたが、それでも五十鈴川の流れは多摩川の牧歌的な水のある風景とは、どうしても違うような気がした。
このグループの中で一番緊張していたのはインド人の神父、次に私であったろうと思う。神父は私にどんな服装をして行ったらいいか、異教徒の自分が神殿に近寄っても差し支えないのか、としきりに聞いた。そして目立たないようにハイ・カラーの神父の服装ではなく、いささか形の崩れた古びた背広を着ることにした。
私の方は拝礼の仕方に失礼がありそうで心配だった。先年、或る新聞社の社長が亡くなっなられた時、お葬式は神道であった。私は弔辞を読ませて頂くことになっていたので、本来ならいるべき場所でもない前列に坐るように指示された。すると当時の海部総理が近くの席に来られて、「こちらのご拝礼の仕方はどうなっておられますか?」と聞いておられた。拍手と拝礼の回数が違うことがあるので、その点をきちんと配慮されていたのである。
私の勤めている財団では、年末に神主さんが来られて祈願をしてくださる。今年一年の安全を感謝し、来年も無事でよい仕事ができますようにと祈願するのである。私はカトリックだが、こうした儀式が信仰を冒すものだなどと思ったことはない。各宗教でやると回数が増えるから「日本教」で代表する、という感じだ。私の思惟の中では、個別的でしかも普遍的な「神」への尊崇と、人々への善意を感謝し、幸福を願う思い以外の何ものもない。
当然のことだが、西欧の神殿や教会と比べて、伊勢神宮式年遷宮という習慣はまことに特異なものである。石造建築は完成するのに時には数百年もかかり、一度できてしまえば、永遠に近く保つのだから、二十年毎に新しく造営するなどという発想はむしろ驚嘆に値するだろう。
神殿を絶えず建て替えたのは、出エジプトをした後のイスラエルの民が荒野をさまよっていた四十年の間の幕屋であるとみてもいいのだろうが、これは遊牧民のテントと同じ思想だから、二十年間だけはまっとうに使える神のいますお社を作るということではない。
天武天皇天智天皇の皇子の弘文天皇を殺して天下を取った。その際吉野から伊勢を経て、近江朝廷の背後を衝いた。途中伊勢路に出た時、前・伊勢神宮的お社があったと思われる南伊勢を遥拝した。天皇の位を奪うのに成功してから、そのことを思い出し、伊勢神宮を今のような形にして建て、それ以来天皇家の祖先神の神社になった、というのが、素人の持っている知識である。
遷宮の制度ができたのは、持統天皇の時、七世紀の後半だと見なされているが年号の推定には必ずいろいろな学者がさまざまな説を立てるので、私のような素人はできるだけ、そのオソロシイ論争から遠ざかることにしたい。したがってここに書くのは、おおまかな、たまたま私の手元にある資料によるものである。
ただ大切なのは、伊勢神宮より七十年ほど前に斑鳩法隆寺が既に建てられていた、という事実である。法隆寺の建築技術は、朝鮮半島から取り入れたものとしても、我が国最古の本格的木造建築物であった。つまり屋根には瓦が使われており、柱は礎石上に建てられた当時の「近代建築」だったのである。
しかしそれより七十年後に建てられた伊勢神宮はそうではなかった。屋根は千木(ちぎ)、鰹木(かつおぎ)を載せた茅葺(かやぶ)き、棟持柱(むなもちばしら)は穴を掘ってそこに埋め込む「掘っ立て式」である。敢えて伝統を重んじたのだと、学者はこうした態度の理由をきっぱりと断定する。
現代で考えれば、今、あえて古い伝統的な家を建てる人というのは、物心両面に余裕のあるインテリであろう。しかし当時では必ずしもそうとも言えまい。仏教が伝来した時、蘇我氏は大陸文化輸入賛成論者だった。しかし中臣氏と物部氏は輸入反対論者だった。その理由は伝統を汚すということだったらしいが、後に蘇我氏を滅ぼしてからは、「豹変して」仏教を受け入れた。小説家の私は、人の心変わりを書くのが好きだから、この変化はまことにすんなりとよく理解できる。この場合は、拒否しておいてしばらくして手を出した。しかし反対の場合もある。人はまずハイカラ趣味、新しもの好き、になり、後に自分独自の様式美に拘泥(こうでい)し出す場合もある。
現代では「掘っ立て小屋」と言えば、決して褒めたことにはならない。しかし伊勢神宮は、贅沢で伝統的な歴史的掘っ立て小屋を意識的に維持したといわれる。すなわち柱も掘っ立て式で地面に深く「植える」わけだから、その建物は二十年しか持たないことは初めから計算済みなのである。
私たちはいわゆる神明造りの屋根の妻の両脇にある棟持柱のことも説明されたが、これは弥生後期からある建築法を今に至るまで綿々と伝えてきたものだという。しかもこの棟持柱は、御遷宮の後、内宮の場合は宇治橋の内側の大鳥居として二十年使われ、その後さらに鈴鹿峠のふもとの「関の追分」の鳥居として二十年使われる。都合六十年のお勤めを果たすわけだから、すべてのものは徹底して質素に使い切るという日本人独特の美学にも沿っている。この使い捨て時代に深い森の中に立ち続ける棟持柱や大鳥居が、その思想を表しているように見えて楽しい。
しかし恐らく外国人は、天皇家の信仰の本山が、どうしてこのような簡素なものなのか、ということに驚くであろう。何しろ、彫刻もなく、塗りもないのだ。しかしもともと神社というものは建物がなかったのだ、ということを聞くとよくわかる。神いますところならどこでも、その時々に祭場を建てたのが、固定化したものだという。その点、モーセの幕屋と実によく似ている。
これら建物の詳細は、「皇太神宮儀式帳」に記されている。神殿の垣は四重である。 「皇太神宮儀式帳」によれば「一ノ玉垣 長十四丈」「二ノ玉垣 廻六十丈」「三ノ玉垣 廻百二丈」で、そのさらに内側に瑞垣(みずがき)があってその中に高床式の正殿がある。