「面白い新聞が読みたい - 椎名誠」文春文庫 ガス燈酒場によろしく から

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「面白い新聞が読みたい - 椎名誠」文春文庫 ガス燈酒場によろしく から
 

このあいだ岡山のホテルで眼がさめて、部屋に届けられていた地元新聞を読んでいたら、大新聞にはない土着の話がいろいろあってけっこう面白かった。県内の高校の体育祭の内容まで出ている。
こまかく各地域別のニュースもあって、地方紙はだいたいそういうスタイルが多い。クレヨン使いたての幼児みたいにいたるところカラー写真が多すぎて読みにくいのが残念。
新聞メディアの構造的衰退が叫ばれているが、見出しからはじまって書いてある内容までまるで中身が同じ大手の新聞よりもこういう土くさい地方紙のほうが少しは長く生き残るように思った。
今年、ある大手新聞に「対談」を依頼されて応じたけれど、二時間近く話をさせておいて、 記事は司会 者が最初から意 図的に繰り返しいっていた「結論になっていて、実際した話とは違うのでびっくりした。まだこんなことをやっているのか、という驚きだ。
検察特捜部が、自分らで作ったシナリオにそって事件を作っていく、というやりかたにそっくりで、そういうことをやっている新聞が、検察のやっているその幼稚な手法をどの面で批判できるかね、とささやかながらも身をもって実感した。
新聞記者は、社会の真実を組織とともに追求していく突撃隊のようなものだ、と教えられ、中学の頃にその仕事に憧れたが、いまはえらく寂しい職業に思えている。
なんとなく見えてくるのはどのセクションもこじんまりとしたヒエラルキーがあって、記事のレベルはそこから出られないこと。ニュースソースがどの新聞も同じところのようで、当然記事の内容も同じになる。休刊日は相変わらず横並びの平和でのんびりしたもので、それでどこの社も危機感はないみたいだ。
同じニュースならいまや新聞の活字メディアはいちばん個人に伝わるスピードが遅いのだから、このネット時代に「速報性」としての価値はもうないし、一人住まいの若い人が自室に宅配を頼んでいる、というと、いまは「ヘンなやつ」視されるらしいから世界にも稀な「宅配」の価値も急速に意味を失いつつある。経済的余裕のない高齢者層も「新聞を読む」という古めかしいニーズは内包しつつ、経済的に宅配をやめざろう得ない、という構図はあきらかだし、世の中どんどん老齢化社会になるというのに新聞のこまかい活字はますます見にくくなっているから、ニュースはテレビやラジオで耳で聞いているので十分、という老人が増えているらしい。
そうするとあとは誰が読んでいるのだろうか。いや、これから誰が読もうとするのだろうか。
ぼくが思うにはニュースの速報性はもういいから、その部分は項目だけにして、その内側の解説をもっとくわしく各紙が独自に独断的に「いっぱい」書いてほしい。
それはつまり「社説」にあたるのだろうが、今の社説というのはむかしからみんなそれがキマリのように偉そうに大所高所からの視点で書くからちっとも面白くない。あの部分をもっと若い、中堅ぐらいの元気のある記者が、私見でいいからどんどん具体的にわかりやすく書いてほしい。
上の者はそれを偉そうに検閲などしないで、好きなように書かせる。「社説」は大事な欄だ、なんて思っているのは新聞社の当事者ぐらいのもので、いまみたいな社説なんて実は大衆としての読者は誰も求めていない。これはもう世間の常識だ。
社会面のニュースも、おきている事実を項目だけならべて、さっきのわかりやすい社説と同じように、わが新聞は、この事件をこのように独自に分析し、こういうことではないかと判断している。一記者の私見なので間違っているかもしれないが今のところはきっとそうだと思う。
ー などという記事がどさどさ出ていたら、もっと面白く読めるんじゃないだろうか。同じニュースや同じ事件に対してひとつの新聞で相反する意見なんか出ていたらもっと面白いが、今だとデスクの責任問題などと言いだすのだろう。
ひところの「日刊ゲンダイ」や「夕刊フジ」がそれに近いところまでいったけれど、見出しのほうが大きくて次第に大手風の無難な記事づくりになっていってそういう本文のスペースがどんどん減っていっちゃった。とくに「日刊ゲンダイ」なんかは当初は「日刊の雑誌」というフレコミだったのだから、本来はそのセンだったんじゃないのかね。
書評欄などがどの新聞もたいてい日曜日、というのも気持わるい。なにかの理由で国家のそういう機関から「新聞の書籍の紹介・書評は日曜日に統一するのがのぞましい」などと言われているのだろうか。
そこで取り上げられる本も相変わらずつまらなそうなのが多い。多くは書評委員会のような識者集団が定期的に集まっていろんな専門家がそれぞれ紹介したい本を持ち寄って主張してきまるらしい。しかしそれぞれの専門家が絶賛するのだから他の専門家が異論をはさめるものんでもない。じゃあなんのための集まり(会議)なのだろう。要するにこのあたりも「形式」なのだ。それじゃあ興味を持つ人は限られてしまうだろう。
これも新聞社の担当が独自の視線をもって、今週は「コレとアレとコレ」というふうに決めて、褒めるだけでなくコキおろす本もどんどん載せていけば活気が出るだろうし、それに詳しい人に原稿依頼していけば個性が出て面白いはずだ。それができないのはあれだけ人数のいる新聞社に本ばかり読んでいる「読書命(バカ)」の編集者がいないから自信がなく、結局は無難である専門家まかせになってしまい、つまらなさに輪をかける、ということになるのだろう。
家庭欄、文化欄はたまに読むと「そうなのか」と感心することもあるが、読まなくても別に不安にはならない、という新聞の不思議な場所だ。
これはたぶん人間がつくっているのではなくしてシステムがつくっているだけだからなのだろう。