1/2「隅田川東岸 - 村上元三」中公文庫 江戸雑記帳 から

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1/2「隅田川東岸 - 村上元三」中公文庫 江戸雑記帳 から

隅田川という地名は、ずいぶん古くから和歌や紀行文にも出てくるし、角田川と書いたものもある。
東岸(正しくは南東岸)の上流を「墨江両岸一覧」でみると、浅茅ヶ原が一めんの雪野ヶ原に描いてある。このあたりは大昔、古利根川の河口にひろがったデルタ地帯で、いたるところに浮州や堅洲があり、蘆荻(ろてき)が生い茂って、人の住めるようなところではなかったらしい。
謡曲や舞踊でやる「隅田川」は、わが子の梅若丸を人さらいに奪われた母が、このあたりまで尋ねてくる。都の北、北白川に住む吉田なにがし、と謡曲では名乗るが、「江戸砂子」では、わが子がここで死んだのを知った母が、妙亀と名乗る尼になり、梅若丸の菩提を弔ったという。その梅若丸の塚が、木母寺(もくぼじ)の境内にある。
木母寺に近い白髭神社は、寺島村の鎮守で、このあたり一帯は「両岸一覧」でみると、天明二年(一七八二)という時代でも、まだデルタ地帯だったのがわかる。当時、木母寺詣でをするには、淋しい道を通るよりも、対岸の真崎(まつさき)から渡し船に乗る、という方法をとった。
それから下流へ行って、長命寺から牛御前(うしのごぜん)神社あたりになると、江戸人の信仰と行楽をかねていた。いまでは、桜餅や団子の名物が有名だが、むかしは牛御前の堤の下が、隅田川舟遊びの終点であった。
三囲稲荷は、元禄のころまでは田中稲荷と呼び、だんだん信者が増えて名所になった。ちょうど隅田川をはさんで、対岸の待乳山聖天と向い合っている。
このあたりの河岸には、武家屋敷がならび、水戸下屋敷もある。深川や本所に大名の下屋敷が多くなったのは、明暦三年、いわゆる振袖火事で曲輪うちの大名や旗本の屋敷が焼け、立退先がなくて困ったのが因であった。
吾妻橋が架けられたのは、安永三年(一七七四)で、はじめは大川橋と呼び、それまでは竹町の渡しが対岸と結んでいた。
このへんは、やはり商家の寮も多く、岸には船着場が見えている。御上り場という柵で囲んだ船着場が東岸にもあるのは、将軍が用いたのではなく、水戸をはじめ諸侯が下屋敷へ遊びに行くとき、船を着けたところであった。
川幅もひろいので、夏になると川岸に小屋を立て、武家の水練の場所になった。小屋は脱衣所で、岸には物を売る店など並んでいないし、裸を人に見られることも少なかったからであろう。
いまでも向島と呼ぶのは、この一帯だが、江戸のころ諸大名の下屋敷や商家の寮が多かっただけではない。明治に入っても、有栖川宮、三条、岩倉、それに勝海舟伊藤博文などの別荘もあり、静養をするには向いていた場所であった。
「両岸一覧」には、河岸の道の中央に、大きな石が描いてある。これは駒止石(こまどめいし)といって、「江戸砂子」には八幡太郎義家が奥州征伐に向うとき、駈け出した馬がここでとまった、という伝説が出ている。一説では、太田道灌安房の里見家との合戦で、ここで防ぎ矢をして敵の進むのをとめた、という。しかし、どちらも確証はない。第一、その駒止石が失くなったのはいつなのか、これも記録に残っていない。
その少し下に、寛文四年(一六六四)に設けられた幕府の御竹蔵があり、後年、これが材木蔵になった。十間川にかかった橋の下に、水門が設けてある。四万五千坪の広さで、明治のはじめ陸軍用地になり、のち被服廠になった。関東大震災のとき、おびただしい死者が出て、供養塔が出来ている。
十間川に架った橋のうしろに、大きな椎の木が描いてある。ここは平戸の松浦家の屋敷で、そのため椎の木屋敷とも呼ばれた。
御竹蔵の下に、両国橋があり、そこを渡ったところは、赤穂浪士討入のあったころと「両岸一覧」の時代では、ずいぶん町の様子が違っている。
吉良上野介義央が、刃傷の後、隠居して江戸城曲輪内の呉服橋屋敷を引払い、一たん麻布の下屋敷へ入り、それから本所へ移ってきたのは、元禄十四年であった。そのころは、まだ松坂町という地名ではなく、ただ本所二つ目といっていた。もの旗本松平登之助の屋敷を、模様がえをして移ったのだが、となりに旗本土屋主税が住んでいた。
「両岸一覧」には、回向院の屋根だけが描いてある。寛政三年(一七九一)から、そこの境内で相撲の興行を催すことになった。明治四十二年、本堂の東北に国技館が出来るまで、興行は続いていた。
そこから下流に、隅田川にそそぐ堅川があり、一之橋が架っている。橋を渡ると、新大橋の袂にかけて、上様御船蔵というのが見える。ここは三代将軍家光のころまで、将軍の乗る一千石積みの巨船安宅丸をはじめ、幕府の御用船三十八艘が納めてあった。しかし、海外渡航禁止令が出て、家光自らの下知で安宅丸をこわしてしまって以来、あまり大きな船は入っていない。この御船蔵も、明治維新に撤去され、あとに安宅町という商店街が作られた。