2/2「隅田川東岸 - 村上元三」中公文庫 江戸雑記帳 から

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2/2「隅田川東岸 - 村上元三」中公文庫 江戸雑記帳 から

新大橋をくぐった隅田川の東岸は、深川になる。小名木川の岸に、御舟手役所があるが、西岸ほどは大きくない。
隅田川をはさんで、本所深川は川向う、という観念が、江戸の人間にはあった。しかし、深川は深川で、独特の気質を持っていた。
川岸の商家、土蔵も、見るからに豊かだが、徳川期の中期になって町割が出来、堀も作られたというのが、はっきりわかる。元禄時代に入って、さかんに埋立が行われたので、当時のものと天明二年の絵図を見比べると、ずいぶん深川は広くなっている。
古い寛永期の絵図を見ると、隅田川沿岸の深川あたりには、漁師町しかない。それから埋立地に農業が発達して、だんだん賑やかになってきたが、深川の人間は隅田川を渡って対岸へ行くことを、江戸へ出る、と言った。
深川が、半農半漁の町から発展したのは、やはり富岡八幡宮門前町として、次第に形をととのえてきたからであろう。
小名木川から下流、深川一帯は永代島といわれる。その中心にあるのが富岡八幡宮で、開基はずいぶん古い。
「江戸名所図会」を見ても、大へんな広さで、境内には腰掛茶屋も多く、遊楽の場所にもなっている。
それと共に、深川が賑やかになったのは、江戸とは異なる情趣を持つ遊所が、八幡宮を中心にひろがっていたからであった。
江戸のころ、公娼というのは吉原しかないのだから、もちろん深川は岡場所になる。しかし、門前仲町、新地、常磐町、弁天、裾継、新石場、古石場、網打、佃などの色町があり、江戸とは違う雰囲気を持っていた。
吉原の手引には、毎年、いろんなところから「吉原細見」が出ていたが、深川にも「辰巳之花」「巽年代記」などが出て、茶屋、芸者、子供屋、女郎などの案内になっていた。ここでいう子供屋は、女郎屋の意味になる。ほかに、わざわざ江戸人が隅田川を渡って食べに行くほどで、名代の料理屋も多かった。
江戸と違っているのは、深川には四通八達した堀があり、屋形船に芸者を乗せて酒をのむ、という遊びが出来ることであった。徳川中期には、ぜいたくな屋形船があって、一日五両の船賃だったという。もちろん、舟を借りるだけの費用で、酒や肴、芸者の花代、祝儀などは、そのほかになる。こんな遊びをしたのは、よほで裕福な町人だが、長屋に住んで一家五人が食って行くのに一ヶ月一両あれば充分、という時代だから、屋形船の数が制限されたのも当然であろう。
それでも、江戸市中のような、厳重な取締ではなかった。やはり隅田川をへだてているし、水郷の遊所として特別に役人から大目に見られていた様子がある。
辰巳芸者といえば、羽織という言葉が残っているほどだが、むかし深川では芸者に男装をさせ、羽織を着せたところから、その習慣が天保ごろまで残っていた。
いわゆる子供屋の抱えになっている女郎も、吉原はもちろん、四宿(ししゅく)といわれる品川、板橋、新宿、千住などの宿場とも違う侠(きゃん)という、独特の気質を持っていた。
浮世絵、絵草紙などにも、深川芸者や女郎を扱ったものが多い。
その深川も、隅田川下流に近くなると、埋立地が多くなり、むかしの絵図でも、わずか五年へだてたものと比べてみると、ずいぶん違っている。
深川には、江戸で有名な豪商も多かったが、やはり木場があったからであろう。元禄十三年に、永代島十五万坪の地を材木問屋に下げわたした。
江戸の材木問屋の中では、川辺一番組問屋というのが、一ばん古いと言われる。のちに、木場の問屋は五百二十四軒にまで増えた。「墨江両岸一覧」の東岸は、永代橋を下から仰いで描いたところで終っている。
こうやって両岸を比較してみると、やはり江戸と、本所深川の相違というのが、はっきりわかる。江戸開府と共に、町造りが出来て、だんだん開けてきた江戸の姿が、西岸には見ることが出来る。そして東岸のほうは、深川独特の面影がある。
いつぞや、大きな株屋さんが言っていた。戦争前、ガラを食って文なしになり、捲土重来を期して暮すには、一ばん深川が人情も厚く、物価も安くて住みやすかったという。いまでも深川には深川人気質が残っている。