「列車食堂の為に弁ず - 内田百閒」福武文庫 百鬼園先生言行録 から

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「列車食堂の為に弁ず - 内田百ケン」福武文庫 百鬼園先生言行録 から
 



「列車食堂はまずくて高い」
だれでもそう云う。世間一般の定評となっている様である。だからそう云わなければこちらが見っともないかも知れない。物の味が解らないと云う引け目がある様に思われる。
漠然とした噂だけでなく、私が会った数人の紳士からも直接に、まずくて高いと云う批判を聞いたことがある。
しかし私はそう思わない。
そこで、愚見を陳べて列車食堂の為に弁じようと思う。
弁じた為に迷惑するのは列車食堂だと云う事になっても私は知らない。
私は汽車弁当が好きで、昔はわざわざ駅から買って来て貰って、うちで食べた事もある。今でも嫌いではない。中身の趣きが以前とは少し違って来た様ではあるが、矢張りあの折の蓋を開けるのは楽しい。
午過ぎの 急行で九州へ立った時、東京駅で汽車弁当を買って乗った。動き出してから同じく駅売りのお茶で折の弁当をしたためた。その急行には食堂車がついているけれど、昼間は食堂車へ行きたくない。
汽車の中で日が暮れて晩になってから、食堂車に出掛けた。メニュウで誂(あつら)えたお皿の物で一盞(いつさん)を傾けた後、お酒の後の御飯にしようと思う。少し前から列車食堂は和食のサアビスもする。幕の内弁当を誂えたら、吸物附きで持って来た。
ところがそのわりごの蓋を取って見ると、一目見て何だか見覚えのある様な気がする。おかしいなと思って、中に列らんでいるおかずをよくよく見たら、驚いたことに今日の昼間、座席で食べた折詰めの駅売り弁当と全く同じ物である。何一つ違った物はない。 焼き魚、玉子焼、こま切れの牛肉、蒲鉾、竹の子、うど、くわいのかけら、その他隅の方の漬け物に到る迄、丸っきり同じ取り合わせである。ただ値段が、吸物がついているにしろ駅で買った汽車弁当の大体倍であるから、色色の切れっ端が切れっ端なりにみんな少しずつ大きい。そうして列べ方もいくらか物物しい。しかしそれは両者の差異と云う程の感じは与えない。構成が全然同じだから、同じ物を繰り返して二度出されたと云う気がした。
列車食堂の御馳走は千篇一律である。その好個の見本にめぐり合った迄の話で、汽車弁当を造ったのと、この列車の食堂車を請負っているのとは同一の食堂会社である。その会社はこの列車の外にまだまだ沢山の食堂車を請負っている。当日の幕の内弁当はどの急行列 車の食堂車で食べても恐らくみんな同じだったのだろうと思う。くわいのかけら一つでも省く事なく、全部が同じ取り合わせで列んでいたに違いない。
だからいけないと私は云っているのではない。いろいろの旅客が別別の列車のどこで弁当のわりごの蓋を開けても、中身は寸分違わない同じ物が詰まっていると云うのは、想像して見ても爽やかな気持で、もっと考えつめれば一種の美感を誘う様でもある。
しかし列車食堂の御馳走の本体はそう云う和食ではなく、西洋料理である。或は洋食である。そのサアビスがまた千篇一律であって、その日その日の今日の特別料理と云う書き出しはあるが、特別と云うのはふだんのおきまりと違うと云うだけで、別に特別だったためしはなさそうである。普通急行と特 別急行ではメニュウがいくらか違うけれど、それも大した事はない。要するに、列車食堂の本体、そうして特色は千篇一律のあてがいぶちにある。



どこかへ行く人か、帰って来る途中の人が汽車に乗っている。食堂車で食事をする為に、又は一杯やる為に汽車に乗っていると云うのは先ずないであろう。
彼等がとき時分になり、或は腹がへり、退屈になって聯結のデッキを渡り食堂車へ行く。そうしておしきせの御馳走を食う。
ああ、うまかったと思う人もいるだろう。しかし、少し気の利いた人は、まずくて食えやしないと云う。
料理は千篇一律でメニュウの上に変化はない。しかし千篇一律の御馳走を乗せて日本中を走り廻っている所へ、千差万別のお客が別別に、そのお客に取っては多分稀に、或は暫らく振りに這入って行って腰を掛ける。
用意する側から云えば千篇一律であるが、こちらから見れば千変万化のいろんな御馳走があ る。好みに従って註文すればいい。大体ア・ラ・カルトの一品料理はどれも普通である。そんなにうまい上等の物がある筈もないが、取り立ててまずいと云う程の事はない。まずい、まずいと云う人達はお家でどんな物を召し上がっているのだろう。又は行きつけの御贔屓のレストランはどこなのだろう。
但しお好みの一品でなく、定食又はランチと称する盛り合わせの楕円の大皿には犬の正餐の趣きがある。そのお皿の御馳走を食べおおせたら、大抵の人がげんなりするだろう。つまり油が重たいせいだろうと思う。しかしそのお蔭で満腹感を味わわされる。だれにもふとこらの都合がある。それで車中の一かたけを済ましたと思うことが出来るのは有難いかもしれない。
もっと油を軽くして、味わいをさら りと造って供すればお客の口に合うかも知れないが、それでうまいと云われる様だったら、お客の方ではいくら食っても食い足りないと云う事になる。懐中を考えながら奮発して、もう一つ註文してもまだ足りないと云うのでは、今日よりもっと人気は落ちるだろう。
列車食堂の為に弁ずる立ち場から云えば、大体今の儘でよろしい。うまくても、うまくなくても、それは人様の品定めにまかせて、特に列車食堂の料理がうまいと云う唐変木(とうへんぼく)はいないだろうからそちらの側への気を配る必要はないとすれば、うまくないと云う側でも結構食っているのだから、うまくないと思わせるのも、そうして食ったお客に食後、「食堂車はまずくて食えやしない」と云う優越感を与えるのも、これ亦サアビスの 一つである。
食堂車はまずくて、高い。
その「高い」と云う点に就いても弁ずる必要がある。
汽車に乗るには切符がいる。急行なら切符の外に急行券がいる。
その切符を揃えて乗っても、特別二等車に座席を占めるには特ロ券を買わなければならない。寝台に寝るには寝台券が必要である。いずれもお金が掛かる。
食堂車で食事するには各人一つずつの椅子を専用する。即ち別の車室の自分の座席以外に、更に座席を占める事になる。なぜ食堂車券を売らないのか。狭い列車内で一人の旅客に二重に座席をふさがせるにはその代償を求めるのが当然である。
列車食堂は請負った業者がその車両を借り受けて、借り賃を払って営業している。その借り賃を食事に来るお客に割り当てて、食堂車券を売り つければいいものを、そんな事をすれば客足が遠のくのを慮(おもんばか)り、ただで済まして「入いらっしゃいまし」といい顔をしている。しかし本当はただではない。商売だからそんな馬鹿な事をする筈がない。
ビフテキ、カツレツ、ハムサラダ、麺麭(パン)にでも紅茶にでも、みんな食堂車券を刻んだ割り当てが含まれている。そうして窓の外の田や森は七十キロ八十キロ(*キロ=漢字)の速さで後ろへすっ飛んでいる。じっとして動かない食卓よりは高いのが当然であって、世間並みだったらその方がおかしい。