「魚は那須にかぎる - 海音寺潮五郎」文春文庫 文藝春秋編巻頭随筆第一巻から

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「魚は那須にかぎる - 海音寺潮五郎」文春文庫 文藝春秋編巻頭随筆第一巻から


徳川家康が関東の主となって江戸に来た頃、江戸湾には魚介類が実に豊富であったと、慶長見聞集に出ている。そうだろう、当時、利根川はこの湾に打出していたが、そのほかに荒川も、隅田川も、六郷川もあって、これらが上流からそれぞれ豊富なえさを運んで来たのだから、魚共がうじゃうじゃいたはずである。
ところが、この豊富な魚を、「関東の海士、取ることを知らず、磯辺の魚を小網、釣りを垂れてとるばかりなり」であったという。漁法も原始的であったわけだが、人口が少いのだから沢山獲る必要もなかったろう。
江戸城は、家康が来るまでは、小田原北条氏の被官遠山氏の守っている出城にすぎなかった。道灌築城の頃から百五十年も経って、この頃は城というより、砦が陣屋くらいの ものになっていて、附近の人家もごく少く、江戸は奥州街道沿いの一寒駅にすぎなかったが、家康が来て居城とすると、急速ににぎやかになった。家康が天下人となり、天下の覇府となると、さらに急速だ。諸大名の屋敷がおかれ、労働者が集まり、商人が集まり、遊楽機関が発達し、忽ち大都会となった。摂津の西成郡佃村の庄屋で森孫右衛門という男がいた。天正年中に家康が上洛した時
- 本能寺事変の直前に信長に招かれて上洛した時か、秀吉の妹婿になって上洛した時か、いずれこの頃のことであろう、家康は清和源氏の祖である多田満仲の墓と住吉明神にお詣りしたが、孫右衛門さんはその船のご用をうけたまわった。森という名字も、孫右衛門さんの家の庭に老松が三本あるのを見て、家康がつけた ので、それまでは「見一(けんいち)」という名字だったという。以後、上方で徳川家が船のいる時は、森家がうけたまわり、大坂役の時には特に働いて、いつも魚など献上したという。
この孫右衛門が、江戸の繁昌を人づてに聞いたか、自ら下って来て見たか、多分、自ら来て、繁昌を見、江戸湾の豊富な魚を見て、上方の進んだ漁法をもってするば、利益十分と判断したのだろう、佃村の漁民三十四人をひきいて来て、前からのゆかりを申立て、江戸で渡世することを、幕府に願い出た。
幕府はそれを許し、鉄砲洲の東の干潟百間四方の地を居住地としてあたえた。それが後に佃島となる。もっとも、ただでは許さない。幕府で入用の魚介類は全部献納せよとの条件はつけた。幕府が毎日入用となる魚介類とい えば、おびただしいものだが、それを献納しても、なお十分の利益のある見きわめがついたのだろう、孫右衛門らは承諾した。
この漁民らが毎日の漁獲物を売ったのが、魚河岸のおこりである。はじめ日本橋の本小田原町にあり、江戸の発展とともに附近の町々にひろがり、いく変転しながらも江戸時代をずっと繁昌し、東京となってなお栄え、大正大震災のあと、今の築地の中央市場となった。
ところで、ぼくはよく那須の山小屋に出かける。数年前から膠原病という奇妙な病気になったので、一層出かける。
「あなたの年頃になると、病気でなくても、時々転地する必要がある。この病気だからなおさらだ。欲をいえば週に一両日、少くとも両三日は東京から離れて、空気のよいところへ行くべきだ。それだけでも血圧が下ります」
と、医者もすすめるのである。だから、せっせと出かける。夏期には二月くらいは居流すのだが、那須のよさは、空気の清澄さと、人情の醇朴さと、食料品の値段の安いことである。前二者は当然としても、食料品の安いのにはおどろいた。平均して、東京の半値くらいである。
うっかり安いなどというと、商人らの根性を悪くし、値段をつり上げさせるから、 決してそれは言ってならないと女房に厳命しているが、女房も新鮮であることはほめないではいられない。
ある日、魚屋で、
「どうしてこんなに新しいのでしょう。東京よりずっと新しくて、おいしいですよ」
と、ほめたところ、魚屋のおやじは、
「そりゃそうだッペ、地のだけ」
といったそうだ。
女房はおどろいた。栃木県は海のない県だと思っていたけど、海があったかしらと、いそがしく思い返していると、おやじは、
「ここは水戸の那珂湊まで真直ぐに道があるので、トラックで四時間半あれば往復できる。仙台の石巻からも、汽車で五時間でつく。新しいはずである」
という意味のことを言ったという。「地の」とは、産地直輸送のものという意味であったのである。
この話を女 房から聞いて、ぼくは笑ったが、それとともに油然(ゆうぜん)として湧いた疑問は、「なぜ東京では値段が二倍もするのだろう」ということであった。
今の東京湾では魚は獲れない。東京湾で釣った魚は食えない、煮ても焼いても、何ともいえず異様な悪臭があって、とうてい食えないと、釣人が口をそろえて言っている。たから、東京で市販されている魚は、すべて各地の漁港から送られて来たものである。その点は那須と同じである。電気機具、たとえば扇風機、たとえば電気洗濯機、たとえば電気掃除機、たとえば電気冷蔵庫など、大都市やその周辺のメーカーによって造られ、輸送されて各地で売られるが、東京で買っても、鹿児島市で買っても、ほとんど値段にかわりはないのに、魚は東京と那須でこん なにも値段にひらきがある、不思議であると思った。「市場の機構に問題がある」と思わないわけに行かなかった。
東京にかえって、友人にその話をしたところ、友人は、
「その通りだ。東京の中央市場は権現様以来の特権がある。明治以来、それはいく変りもしたが、本質のものは動かない。ここにメスを入れなければ、東京の物価は下らない。東京の物価が下らなければ、日本全体のそれも下らない。日本は徹底して中央集権が行われているせいだろう、全国、なにごとでも東京へ右にならえだからね。しかし、今の日本でそれの出来る人はいないだろうね」
と答えた。
「もし佐藤さんが、首相をやめた後、東京都知事になってやったらどうだろう」
「佐藤はがらではないよ。第一、彼にはそんな 気はないだろう」
「仮にそれがあるとしてだよ」
「だめだろうね。彼には貫禄がない。勇気がない」
「そんなものがいるのかね」
「大要り。この仕事は大貫禄と、いのちがけの勇気と、徹底した無私の心がなければならんのだ。もし、終戦後の政治家でやれる人をもとめるなら、吉田爺さんだったろうね。吉田爺さんならやれたかも知れない。爺さんが首相をやめた後、東京都知事に打って出て、末期の仕事にこれをやって行くよと言って、この問題を解決したら、爺さんの名は日本歴史上第一に指を屈せられるべき大政治家として、後世に伝えられたろう」
「なるほど、なるほど。では、当分、魚は那須にかぎるわけだね」
と、ぼくは笑ったことであった。