2/2「江戸の出版界 - 藤沢周平」文藝春秋 刊 帰省ー未刊行エッセイ集 から

2/2「江戸の出版界 - 藤沢周平文藝春秋 刊 帰省ー未刊行エッセイ集 から

西鶴の『好色一代男』が出たのは天和二年、続いて貞享年代に入ると浄瑠璃竹本義太夫近松と組み、義太夫節が一世を風靡した。こうした風潮を受けて、京都の書肆八文字屋が出版する好色本、読本が熱狂的に迎えられた。
こうした京坂の出版事情にくらべると、江戸は少し遅れる。これまでの教養本位の書籍出版とは違う娯楽中心の金平本、赤本、黒本が出てくるのが元禄年間前後である。次いで宝暦年間に至って、漸く大人の嗜好に叶う黄表紙が出、安永に至って洒落本が登場する。版画の方も、寛文年間に菱川師宣がはじめた黒一色の版画は、宝暦に入って紅絵、漆絵を出し、明和の鈴木晴信に至って彩色鮮やかな錦絵に変るのである。
享保六年の幕命による仲間結成は、元禄か ら安永、天明に流れて行くこうした出版情勢に対する取締り強化策として打ち出された措置だった。
このときの布令は、新規にたくらみ出すことを堅く停止、月行事を定めて、互いに吟味し取締まる、新規に出したものを隠し売って、後日解った場合は一組の責任である、新たに商売するものは届け出る、などであった。とくに「一時の雑説、あるいは人の噂を版行致し、猥りに触売り候儀、自今一切無用たるべく候。これのもの之あらば召捕る」と厳しい姿勢を打出している。
次いで翌年の享保七年には、町奉行大岡越前守から、新版書物の取締りについての布令が出された。いわゆる御条目で、その中には好色本の類は、風俗のためにもよろしくないから、早早に改めて絶版する、権現 様(家康)のことは勿論、一体に徳川家のことを書いたものの版行は無用にする、などの条項があり、新刊ものに対する支配者の意図がどのあたりにあるかを窺わせる。
昭和五十年の現在は、田中金脈を書いてもとがめられないのは祝着だが、一方の「風俗の為にも宜しからざる儀に候間」の方は、四畳半裁判で、版元である面白半分と編集責任者である野坂昭如氏が訴えられているあたり、享保の頃からさほど進歩していない気がしないでもない。
以上は書物問屋の場合であるが、地本草紙問屋仲間、錦絵本問屋仲間も、同様に取締まられたことは言うまでもない。ここで幕府の方から言えば、仲間の自主的取締役である月行事を経て、名主、町年寄、最後に北町奉行に達する取締りルートを確立し たわけである。
一方問屋仲間の方では、出版取締りは気重いものの、転げ込んできた寄合い、申し合わせの権利を最大限に利用した。申し合わせによって重版を禁止したのもそのひとつで、これによって自分の店で版をおこした出版物の権利、つまり版権を保護できるようになった。版元の意味はこのようにして明瞭になってくる。後に仲間は、申し合わせを発展させて、仲間と仲間以外(衆外)との取引停止をはっきり打ち出すようになる。風呂屋、暦屋のように、人員を制限しなかったにもかかわらず、版権を確保することでやはり独占的な地位を確保するに至ったわけである。
版株は売買できた。高名な版元蔦屋重三郎は、はじめ新吉原大門口の五十間道に店を持つ書肆だったが、吉原細見の出版だけでは満足できず、中央に進出して出版の手をひろげようとしたが、そのためには通油町の錦絵本問屋豊仙堂の権利を買わなければならなかった。また、落目になった寛政八年頃、蔦屋は歌麿の『江戸すずめ』、『詞の花』、北尾重政の『武将一覧』など、十点ほどの版権を、大坂の版元明石屋、和泉屋などに売っている。問屋仲間は天保十二年に一度廃止されるが、水野越前守が退いたあと、嘉永四年復活される。このときの人数は、書物問屋仲間が古組、仮組あわせて百七店、地本草紙問屋が同じく合計八十八店であったという。
ここで版元の仕事をざっとみると、いちばん面倒な出版許可の手続きは次のゆようなものであった。
まず出版したいものが決まると、作者、版元の連名で、種本(草稿)をそえた開版願書を行事に出す。行事はこれが御条目に違っていないか、仲間の版権を犯す重版、類版でないかを調べ、大丈夫だとなると、今度は行事が証明押印して月番名主に提出する。大ていはここで許可が下りたようであるが、類版の疑いがあるような場合は、さらに担当町年寄である奈良屋市右衛門(町会所)から、北町奉行まで願書が回された。こうして開版免許がおりると、版元は種本を絵師に回して版下絵を描かせ、さらに筆耕に回して版下絵に本分を書き入れさせる。これが彫師に回り、 校合を経て摺師に行って見本が刷り上がる。面倒な本は、表紙屋で装丁させるが、黄表紙などは版元の使用人が仕立てたようだ。
さてこれで発売というわけにはいかず、見本と種本の両方を、もう一度行事に提出する。行事はこれを名主、町年寄を経て、町奉行所に納める。このとき版元は行事に手数料を払った。ここでその本に対する版権が生じるわけで、いまで言えば特許権を得るための手数料といった感じになろうか。
こうした本、あるいは錦絵の版行のために、版元は常に文人、作者、絵師から、出入りの彫師、摺師などを確保しておく必要があった。
当時の本は、草双紙は勿論、洒落本、読本、後の合巻ものに至るまで、挿絵を重視したが、ことに草双紙は、絵の余白に文章を入れたようなものであった。従って作者は絵組みについてひどく神経を使い、自分で下絵を描いたり、文字で注文をつけたりして絵師に回した。これが気が合っている同士の場合は問題ないが、たとえば京伝が嫌い、馬琴が大嫌いという、式亭三馬のような狷介な作者、あるいは逆に北斎のように自我の強い絵師は、時どき悶着を起こして版元を困惑させたようである。三馬と豊国、馬琴と北斎の喧嘩は当時有名だったらしいが、個性の強い絵師には、作者の下絵や注意書きをなぞるだけの挿絵描きが不満だったのであろう。北斎が一枚絵、つまり自分の個 性を十分 に出せる錦絵絵師を望んでやまなかったのも、このへんの事情がある。
癖があるのは作者、絵師だけでなく、彫師、摺師もまた気難しい人間がいたようである。毛割りなどに神技とも言える腕をふるった彫師たちがいたが、名前をみても馬鹿竹、鼻万、狼の音と物凄い。摺りなども、バレンひとつあれば誰でもできるように思いがちだが、摺師に人を得ないと、どんなにすぐれた彫りもぶちこわしになった。だから、出版の工程で最も権威があったのは摺師で、こんな版木では摺れないと、摺師に版木を投げ出されると、絵師も彫師も頭が上がらなかったという。
こうした一癖も二癖もある人間をとりまとめ、需要の動きと取締りの兼ね合いをにらんで一冊の本、一枚の錦絵に、夢と儲けを賭ける版元の仕事は楽ではなかったようだ。寛政改革の取締りはとくに厳しく、宝暦以来の老舗岩戸屋源八は筆禍によって廃業、蔦屋は身代半減の刑を受けた。
江戸時代の版元というと蔦屋重三郎、西村屋与八といった人物が浮かんでくるのであるが、蔦屋はまだ何ともいえない新人を周囲に集めて、その才能をひき出すのがうまかったし、与八は「版元は作者、画工等の名を世に高くすなれば、そのために引札(広告)をするに似たり。かかれば作者まれ、画工まれ印行を乞うべきものなり。われは決して求めず」と高踏的だった。対照的な両版元の姿勢に、文芸興隆期の空気が読みとれると同時に、版元というものの本質がのぞいている感じもある。