1/5「水の流れ 永井荷風文学紀行 - 安岡章太郎」 講談社刊 歳々年々 から

1/5「水の流れ 永井荷風文学紀行 - 安岡章太郎」 講談社刊 歳々年々 から


私は、学生時代に一度、永井荷風とおぼしき人に出会ったことがある。あれは昭和十七年、夏の終りか秋のはじめの頃だった。神田の古本屋の店先に立っていたら、私の隣に背のスラリとした老人が一人、雨傘を片手に、ネズミ色のセビロをきて、ショー・ウィンドゥを覗きこんでいる。その面長な横顔を、何処かで見たことがあるな、と思いながらハッとした。 - 何だ、これは永井荷風じゃないか。いまと違って当時は、テレビや週刊誌で文士が俳優なみにクスリやコーヒーの宣伝広告をつとめたりすることなどなかったし、荷風の顔だって私は二三の単行本の口絵写真で見たことがあるきりだったが、その老紳士は顔立ちだけでなく、物腰態度が何となく荷風の文章を想わ せるところがあったのだ。私は、その人の後に、まわって、背中ごしに書店のショー・ウィンドゥを覗いてみた。それは、三枚続きの木版錦絵で、オランダ人の医師が寝台を囲んで人体解剖をやっている図であった。これもいかにも荷風好みのものに思われた - 。といっても私は、それ以上、この老人のあとをつけたり、声をかけたりしたわけではないので、果たしてこれが本当に荷風であったかは知るよしもない。ただ、あとで仲間の友人たちにこの話をすると、それはきっと荷風だろう、そうにちがいない、ということになった。
その頃、私たちは荷風に熱中していた。いや、これは私たちだけではない。当時、荷風は何も発表しておらず、事実上執筆禁止のような状態であったが、「?東綺譚」の私家版や「ふらんす物語」の初版は古本として伝説的な高値を呼んでいたし、岩波版の「?東綺譚」もまだ版を重ねて出ている頃から初版本はまるで稀覯(きこう)本のようになっていた。野口冨士男氏の「わが荷風」によれば、岩波文庫の重版だけでも、昭和十五年七月には訳詩集「珊瑚集」二千部、短編集「雪解」が二千部、同年八月には「おかめ笹」八千部、「雪解」六千部。そして翌十六年の二月には、また「雪解」が六千部、三月には「珊瑚集」が六千 部、七月には「腕くらべ」が七千五百部、といった状況である。同じ頃、中央公論、弘文堂、岩波書店の三社から個人全集出版の申し込みもうけている。これなどにも、当時の永井荷風の人気が異常なほど高かったことがわかるだろう。
この荷風の人気は、逆にその頃の私たちの生活がいかに味けなく、言論思想統制下の小説だの戯曲だのがいかにツマラないものだったを示している。昭和十九年九月二十日の荷風の日記には、こんなことが書いてある。
《三時過岩波書店編輯局員佐藤佐太郎氏来り軍部よりの注文あり岩波文庫中数種の重版をなすにつき拙著腕くらべ五千部印行の承諾を得たしと言ふ。政府は今年の春より歌舞伎芝居と花柳界の営業を禁止しながら半年を出でずして花柳小説と銘を打ちたる拙著の重版をなさしめこれを出征兵士に贈ることを許可す。何等の滑稽ぞや。》
昭和十九年二月といえば、学生だった私が東部六部隊に入営する直前のことだが、その頃になると、もう岩波文庫もなかなか買えず、勉強家の学生は配給の米とカントの「純粋理性批判」を物々交換で手に入れたりしていた。そんな時期に、軍部の要請で「腕くらべ」が出ていたというのは、まったく《何等の滑稽ぞや》であるが、おそらく特攻隊員の慰問袋にでも入れてくばったのだろうか。勿論、私たち一般国民はこんなことは知らされていなかった。ただ、荷風に関する風評やうわさはその頃でもいろんなところから聞えてきた。たとえば荷風はヤミ物資に興味を持って、米や砂糖や衣類などのヤミ値を克明にしらべているとか、目下、大へんな勢いで長篇や中篇を執筆した が、その原 稿は皆、発表の時期がくるまでフランス大使館の金庫の中にあずけてあるそうだ。とか.....。
いまになってみると、こうしたうわさの大半は単なる風評ではなくて、少なからず根拠のあるものであったことがわかる。ヤミ物資に興味を持ったのは、当時の庶民一般、誰しも当然のことであるが、発表のアテもないのに「浮沈」、「踊子」、「来訪者」、「問わずがたり」、「勲章」等々の力作をつぎつぎと書きつづけていたということは本当だったし、その原稿をフランス大使館にあずけていたというのは誤伝だとしても、荷風が自分の遺産をフランスの芸術院に寄附したいといっていたことは日記にも出ている。いずれにしても、文士の大半が、国民服にゲートルを巻き、なかには軍刀まで吊ったりする人もいて、軍部に迎合した嘘っぱちの戦記や、毒にもクスリにもなら ない銃後の 愛国物語を書きながら、じつに意気消沈していた時代に、永井荷風のこうした姿勢は、うわさで聞いただけでも私たちを感奮興起させるものがあったわけだ。

荷風の人気が、こういう戦時中の反時代的な姿勢だけにささえられていたというわけでは勿論ない。しかし戦後の一時期、荷風の名前が世間一般にひろまり、ほとんど名物男のようになった一つの理由は、やはり戦時中の荷風の態度だ、ようやく戦後の”民主主義”の社会で公認され、かえって美徳のようにたたえられるにいたったからでもあろう。その最もいちじるしい例として、荷風大逆事件に憤慨して江戸戯作者流の花柳小説を書くようになったという説が、こと新しく取り上げられ、あたかも荷風が抵抗の作家であったかのように持ち上げられたりしたことがあげられる。たしかに荷風には社会的関心があって、たとえば同じ傾向の作家のようにいわれている谷崎潤一郎徳田秋声などが、最初から自分自身の世界だけしか問題にしていないのと較べると、眼を自分の外側に向けて、しばしば為政者や権力者をからかったり、ときにはハッキリと敵対心を表明したりもしているが、しかし、だからといって荷風は、べつに戦後のいわゆる”民主主義文学”の作家ではなく、大逆事件の被告の思想に共鳴していたわけでもないだろう。そのへんを石川淳氏は最も鋭く指摘して、「敗荷落日」のなかで、次のようにいっている。
《.....随筆家のもう一つの条件、食うにこまらぬという保証のほうは、荷風は終生これをうしなわず、またうしなうまいとすることに勤勉のようであった。ところで、この保証とはなにか。生活上避けがたい出費にいつでも応ずることができるだけの元金。それを保有するということになるだろう。すなわちrentier(金利生活者)の生活である。財産の利子で食う。戦前の荷風は幸運なランティエであった。(略)ランティエの人生に処する態度は、その基本に於いて、元金には手をつけないという監戒からはじまる。一定の利子の効力に依ってまかなわれるべき生活。元金がへこまないかぎり、ランティエの身柄は生活のワクの中に一応は安全であり、行動はまたそこに一応は自由で あり、ワクの外にむかってする発言はときに気のきいた批評ですらありえた。(略)戦中の荷風は堅く自分の生活のワクを守ることに依って、すなわちランティエの本分をつらぬくことに於て、よく荷風なりに抵抗の姿勢をとりつづけることができた。ランティエ荷風の生活上の抵抗は、他の何の役にも立たなかったにせよ、すくなくとも荷風文学をして災禍の時間に堪えさせ、これを戦後に発現させるためには十分な効果を示している。》
戦前の荷風は《幸運なランティエ》であったことは、荷風自身、否定はすまい。「小説作法」(大正九年)という戯文のなかで次のように述べている。
《一 読書は閑暇なくては出来ず、況(いはん)や思索空想又観察に於てをや。されば小説家たらんとするものはまづおのれが天分の有無のみならず、又その身の境遇をも併せ省ねばならぬなり。行く薫行くは親兄弟をも養はねばならぬやうなる不仕合の人は縦(たと)へ天才ありと自信するも断じて専門の小説家なぞにならんと思ふこと勿(なか)れ。小説は卑しみてこれを見れば遊戯雑技にも似たるもの、天性文才あらば副業となしても亦文名をなすの期なしとせず。》