2/5 「水の流れ 永井荷風文学紀行 - 安岡章太郎」 講談社刊 歳々年々 から

2/5 「水の流れ 永井荷風文学紀行 - 安岡章太郎」 講談社刊 歳々年々 から

こんど私は、荷風が昭和二十年三月十日、空襲で焼け出されるまで住んでいた麻布市兵衛町の偏奇館あとと思われる場所に行ってみた。現在は町名や番地も変っているうえに、私自身、生来の地理オンチときているので、なかなかそれらしい場所も探し出せなかったが、どうやらほぼこのあたりという土地をさぐり当てることが出来た。「?東綺譚」に《梅雨があけて暑中になると、近隣の家の戸障子が一斉に明け放されるせいでもあるか、他の時節には聞えなかった物音が俄に耳立つてきこえて来る。物音の中で最もわたくしを苦しめるものは、板塀一枚を隔てた隣家のラデイオである。》などとあるのを見て、私は何となく昔の電車通りからちょっと引っこんだあたりの、そんな に大きく はない家を想像 したのであるが、これが間違いのもとであった。偏奇館は、アメリカ大使館、スペイン大使館、ホテル・オークラなどにつらなる高台にあって、現在は農林省の官舎(?)か何かの鉄筋コンクリートのアパートが幾棟も建っている、かなり広い敷地を占めていた模様である。とても《板塀一枚を隔てた隣家》のラジオがうるさくて仕事が出来ないというような環境であったとは思えない。(もっとも戦前の原始的なラジオは雑音が多くて聞きとりにくく、どの家も大抵ヴォリュームを一杯に上げて鳴らしっ放しにしていたから、ずいぶん遠くまで聞えたには違いないのだが - )
日記のよれば、荷風の隣の家にはフロイドルスペルゲル氏が住んでおり、荷風の家と一緒に焼けている。火は崖下の方から飛ん できて、まずフロイドルスペルゲル氏の家を焼き、それが荷風の偏奇館に燃えうつったようである。
《余は五六歩横町に進入りしが洋人の家の樫の木と余が庭の椎の大木炎々として燃上り黒烟風に渦巻き吹つけ来るに辟易し、近づきて家屋の焼け倒るるを見定ること能はず、唯火焔の更に一段烈しく空に上るを見たるのみ、是偏奇館楼上少からぬ蔵書の一時に燃るがためと知られたり》
とあって、猛火のありさまは、まさに眼に見えるようであるが、荷風の住居が隣家のラジオに悩まされるような町なかの陋屋(ろうおく)でなかったことは、この一文からも察せられるだろう。
私は、あたりを眺めまわして、敷地の一方の金網の柵に立って枝葉を切り落された一本の大きな枯木があるのを見 つけた。無論、これが日記にしるされた椎の大木であるかどうかは、わからない。幹の一番太いところは、私が両手をまわしてようやく抱き切れるほどの大きさで、この木が生きていた頃には、さぞ鬱蒼たるおもむきをていしていたことであろう。しかし、太い枝を中途から切断されて黒い幹だけになったその木は、遠くから眺めると、まるで人間が黒焦げになったまま立ちはだかったように見える。なおよく見ると、二股になった太い枝の分れ目に一箇所だけ、細い枝がたくさん鳥の巣のようにむらがって生きている。してみると、この巨木はまだ死に切ってはいないわけであろうか。......いずれにしても、三十年前の空襲に耐え、排気ガスにまかれながら、同じ場所になお立ちつづけている樹木というのは、単な る植物というよりは亡びた時代を象徴する一個の執念のように思われる。
しかし、荷風自身はこの家に、それほどの執着も未練ものこしてはいなかったようだ。罹災当日の日記には、
《嗚呼余は着の身着のまま家も蔵書もなき身とはなれるなり、余は偏奇館に隠棲し文筆に親しみしこと二十六年の久しきに及べるなり、されどこの二三年老の迫るにつれて日々掃塵掃庭の労苦に堪えやらぬ心地するに致しが、戦争のため下女下男の雇はるる者なく、園丁は来らず、過日雪のふり積りし朝などこれを掃く人なきに困り果てし次第なれば、寧一思に蔵書を売払ひ身軽になりアパートの一室に死を待つにしかずと思ふ事もあるやうになり居たりしなり、昨夜火に遭ひて無一物となりしは却て老後安心の基なる や亦知るべからず、されど三十余年前欧米にて贖ひし詩集小説座右の書巻今や再びこれを手にすること能はざるを思へば愛惜の情如何ともなしがたし》
とあって、蔵書以外には焼けたものに未練がないというのは、必ずしも負け惜しみとは思われない。石川淳氏のいわれるように、たしかに荷風はランティエであったであろう。しかし、そのランティエの生活にも荷風は倦んでいたに違いない。石川氏は、晩年の荷風が現金通帳をつめたボストンバッグを「守本尊」と称してつねに手放さなかったことを憐み、そのボストンバッグの中には《とうに無効になったランティエの夢がまぎれこんでいた》として《戦後の荷風はまさに窮民ということになるだろう。「守本尊」は枕もとに置いたまま、当人は古畳の上にもだえながら死ぬ。陋巷に窮死。貯金通帳の数字の魔に今はどれほどの実力があろうと無かろうと、窮死であることには 変りがない 。当人の宿願が叶ったというか。じつは、このような死に方こそ、荷風がもっとも恐怖していたものではなかったか。》といっている。
石川氏のいわれたことは卓説であって、私はあえて異をとなえる心算はない。たしかに荷風は、陋巷に窮死することを最も怖れていたであろう。しかし同時に荷風は、そのような死を念願としていたとは言えないまでも、みずからに課していたとは言えるのではないか.......。《唯火焔の更に一段烈しく空に上るを見たるのみ、是偏奇館楼上少なからぬ蔵書の一時に燃るがためと知られたり》という一句は、荷風罹災の日録のなかでも、とくにその頂点と称すべきところであろうが、これは単に荷風が書籍を惜しんでいるものとは思えない。荷風が愛惜しているのは、まさに 《三十余年前欧米にて購ひし詩集小説座右の書巻》なのであって、書籍そのものではない。荷風が失ったのは、書籍というより過去の知識の蓄積を語る何かであり、それはたとえ同じ内容の書籍を買い戻したとしても、再び手に入れることの出来ない或るものであろう。
人は書籍を読んで、頭で理解するだけではない、生活感情全体で理解するのである。とくに文芸書はそうだろう。そして過去に自分の読んだ本は、その中に過去の生活感情が封じこめられている。要するに、荷風は《偏奇館楼上少からぬ蔵書》が一時に燃え上るのを眺めながら、自分の過去のランティエとしての生活が灰になって崩れ落ちるのを認めたに違いない。いや、罹災する以前から、時代はすでに荷風にランティエとしての生活を許さなくなっており、偏奇館の炎上はいわばそのトドメを刺したものといえよう。したがって、それ以後の荷風の人生は、まったくの余剰であり、それは偏奇館をふくめて三度の罹災を敗戦後の漂泊の生活を日記にしるすためにのみあったとい っても、それほどの言い過ぎではないだろう。