3/5 「水の流れ 永井荷風文学紀行 - 安岡章太郎」 講談社刊 歳々年々 から

3/5 「水の流れ 永井荷風文学紀行 - 安岡章太郎」 講談社刊 歳々年々 から


前にも述べたように、荷風は決して自分がランティエであることを否定してはいない。しかし、或る意味で時代の趨勢に敏感だった荷風は、ランティエの命運がそう長くは続かないことを、よく察知していたと思われる。そしてランティエ以外に自分の生きようがないことも充分承知していた。というより自分の生き方をかえる意志はまったくなかったはずである。これは必ずしも、荷風の性格が怠惰でカタクナであったということにはならない。石川淳氏はランティエを《ぶらぶらあそんでくらす横町の隠居》であるとして、その代表にアンリ・ド・レニエをあげ《このレニエの著作こそ、すべてのランティエの、もしくはそうなることを念願し憧憬する小市民の、ささやかな哀 愁趣味をゆ すぶってくれるような小ぎれいな読物であった》と述べている。それはその通りかも知れない。しかし作家がランティエであった例は、レニエにとどまらない。フローベルやゴンクール兄弟は勿論、ジッドもモーリアックもそうであり、石川氏が荷風の読むべかりし新作家として上げているサルトルにしたところで一種のランティエではなかったか。(サルトルといえば「七十歳の自画像」と題する対談で自身の過去現在の生活をことこまかに語っているが、その中で、自分は生れてこのかた一度も金に困ったことはないといい、また出来るだけ沢山の金をいろんな人に与えるのが好きだが、銀行の預金が少くなると機嫌が悪くねるといって、いまも機嫌が悪いところだよ、と冗談まじりに語っている。)作家だけで はなく画家でも、ロートレックドガは貴族の大地主、或いは銀行家の息子であるし、セザンヌにしても父親が小さな銀行(質屋のごときものか)を残しておいてくれたおかげで、画商の世話にはならず、自己の信ずる画法をつらぬいて絵画に新生面をひらくことが出来た。
勿論、ランティエの大多数は、たしかに石川氏のいわれるとおり《ぶらぶらあそんでくらす横町の隠居》かもしれないが、絵画や文学に精進している人も実業に従事している人から見れば《ぶらぶらあそんでくらす》変人ということになるだろう。毎日、カルトンを抱えて"Sur le motif"(写生)にかよっていたセザンヌなどは、町の人から気違い爺だと思われていたらしく、子供に年じゅう石をぶつけられていたという。何にしても、少くとも二十世紀の或る時期まで、フランスの文芸や美術はそのようなランティエによって支えられていたといっても過言ではないだろう。また、そういうものだからこそ《パリの市民は、勤労者の小市民ならばまおさら、その生活上の夢をおしなべてランティエたることに懸けていた》わけであろう。ランボーが詩をやめてアフリカへ出掛けたのも、ランティエになるつもりだったというではないか。
しかし、時代とともに、ランティエの意味や内容が少しずつ変っているのもたしかだろう。たとえば生産技術が上るにつれて労働者の休日やヴァカンスの増加を要求するようになったのは、つまりランティエの大衆化現象であろうし、また逆に純粋の金利生活というのは次第に成り立ちにくくなっているのであろう。とくに日本では敗戦後、税利や農地法の改革によって、《ぶらぶらあそんでくらす横町の隠居》というものは、まったく姿を消してしまった。いや、戦争中からすでに徴用令というものが出来て、無為徒食の男女はすべて強制的に軍需工場その他で働かされることになったから、遊んで暮らせる有資産者も形式的にもせよ何処かの会社や官庁に就職しなければならな くなった。
《十一月三十日 日曜日 微邪。 咳嗽(がいそう)甚だし。洗濯屋の男勘定を取りに来りて言ふ。隣の酒屋の息子十七才徴用令にて既につれ行かれたり。二年間たたねば還れず、還ればつづいて徴兵に行くなりと。》(昭和十六年日記)
《十二月廿二日。雨後の空晴れて片月を見る。浅草にて食料品を購ひ新橋の金兵衛に飯す。川尻清譚氏に逢ふ。世上の風聞によれば曾(かつ)て左翼思想を抱きし文士四十人徴用令にて戦地に送られ苦役に服しつつありと云ふ。其家族東京に居残れるものこの事を口外することを禁ぜられ居る由。また戦地の何処に在りて如何なる苦役に服せるや、一切秘して知ることを得ざる由。(後略)》(同右)
これによって徴用令がいかに過酷であったかが察せられる。当時六十歳をこえていた荷風にはさすがに徴用令はこなかったが、その年齢での一人暮らしはラクではなかったろう。シナ事変がひじまってからは女中にくる者もなく、またいまと違ってインスタント食品などの便利なものもなく、ガスや水道の使用も制限されるとあって、日常茶飯の家事労働でけでも大変である。しかし荷風は、それらについてほとんどグチらしいものはこぼしていない。全身にムクミがきて、疲労甚しく、医者からは入院加療をすすめれれているが、それも断っている。病院で暮らすことがイヤだったのか、治癒の見込みがないと思っていたのか、そのへんはわからないが、どっち途、住みなれた偏 奇館をはな れることが億劫だったに違いない。.......いや、偏奇館には未練はない。昭和二十三年九月、荷風は偏奇館の敷地を八万円たらずで売却している。地価の相場について私は無論詳しくは知らないが、まずは棄て値であろう。なぜ、そんなことをしたか?そのへんの理由は無論、私にはわかりっこないが、この土地、および偏奇館に荷風が何の未練も愛着も持っていなかったことは、たしかだろう。荷風が未練をのこすものがあるとすれば、やはり偏奇館楼上においた書籍の他にはなかったに違いない。