4/5 「水の流れ 永井荷風文学紀行 - 安岡章太郎」 講談社刊 歳々年々 から

4/5 「水の流れ 永井荷風文学紀行 - 安岡章太郎」 講談社刊 歳々年々 から

荷風がどんな本を持っていたか、それも私はしらない。ただ、荷風がいかに自分の蔵書に愛着があったかは、日記の断片を読んだだけで容易に推察できる。昭和十二年夏、吉原を舞台に小説を書こうとしていた荷風は、ほとんど連夜何処かの妓楼に泊まりこんでいたが、それでも必ず毎朝十一時頃には偏奇館へ帰って読書し、灯ともす頃にまた出掛けて行くという具合であった。
《今宵もまた彦太郎に宿す。今月六日の夜より毎夜北里の妓楼に宿するに、今は妓楼が余の寝室の如く、我家はさながら図書館の如く思はるるやうになりしもをかし。》(六月十一日「日記」)
連夜の登楼は五月下旬にはじまって七月上旬までつづく。それからしばらく吉原から足が遠のくのであるが、その間、荷風は連日、偏奇館楼上にあって曝書(ばくしょ)に忙しいのである。《我家はさながら図書館》とは言い得て妙というべきであろう........それにしても、これは何という孤独な生活であろうか。連夜遊郭にあそんでいるといっても、これは好きな女がいて居続けしているというのではない。かよう場所は同じ吉原でも、荷風はほとんど毎晩、違う家に上っている。ときには前夜に上った店と隣り同士かと思うような家に上ったり、また一と晩に二軒の店をハシゴしたりもしている。これは漁色のためではない。
《.......揚屋町の成八幡楼に登る。二時間弐円半。夜より明朝までは七円半なりと云ふ。余が妓楼に遊びしは洋行以前のむかしにて、帰朝後一二度亡友唖々子と共に旧遊の跡をたづねしことありしかど、遊里の光景既に昔日の如くならざれば興味少く、殆ど今日に至るまで登楼せしことなかりしなり。此夜妓丁にすすめられて表梯子を登りしは写真を撮影せむがためのみ(後略)》(五月二十七日「日記」)
荷風はこのようにして”散歩”の途中、偶然のように登楼する。こんにち吉原にはトルコ風呂しかなく、また松葉屋という店では観光用のおいらんなども見せているようであるが、いずれも敗戦前まであった吉原遊郭の実態とは、まったく無縁のものである。しかし吉原がさびれたのは、何も戦争や関東大震災の影響ばかりではないだろう。荷風が帰朝したのは毎時の末頃だが、《遊里の光景既に昔日の如くならざれば》とあるのを見れば、おそらく日露戦争後の数年間で吉原は急激に凋落したものと思われる。つまり、それだけ当時の日本は急速に近代化し、吉原のような封建的な遊び場をささえる”人的資源”は、その頃から払底しはじめたというべきであろう。私の知っている 戦争中の 吉原は、学生服のままで行ける唯一の遊所であったが、ダダッぴろくて崩壊寸前の博物館に東北から連れてこられた女たちが押しこめられているいう感じであった。空襲や敗戦後の”赤線廃止”ということがなくても、吉原は自然に消滅する運命にあったといえよう。そして荷風が吉原を小説に書こうと思い立ったのも、消滅するものを写しておきたいという気持からであろう。もっとも、前年に書いた「?東綺譚」が、この年の四月から朝日新聞に連載され大好評を博していたことも手伝って、吉原を描くことに作家的野心を燃え立たせたともいえるだろうけれど......。
しかし「?東綺譚」の成功は、必ずしもそこに玉の井の私娼窟が精密に描かれているからということではなかった。野口冨士男氏は「わが荷風」で、「?東綺譚」の玉の井は多分に美化されているとはいわないまでも、実態がそのまま描かれているとは言い難いとして《「?東綺譚」における永井荷風は風俗作家ではなくて、詩人である》といい、《「むかし北廓を取巻いていた鉄漿溝(おはぐろどぶ)より、一層不潔に思える此溝」まではえがいても、お雪を「ミューズ」にたとえるために屎尿(しにょう)や洗滌液の異臭を回避せねばならなかった。迷路の狭隘さはつたえても、舗装のほどこされていないぬかるんだ路面の描写は意識してかわす必要があった。人間としての荷風玉の井 という猟奇的で淫靡な地帯に舌なめずりせぬばかりのしんしんたる興味をおぼえながらも、作家としては夢と詩をはぐくむことに専念したのである。》と述べている。私も、これにはまったく同感である。荷風は、吉原にも同じく過ぎ去った世界の夢を託そうとしていたに違いない。その詩的な感慨は当時の日記のいたるところにちりばめられており、いちいち引用のいとまもないくらいだ。.......しかし、いかに主観的に詩情をのべるといっても、その詩情を引き出す何かが現実のなかになくてはかなわぬことだろう。
《〇吉原の娼妓には床上手なるもの稀なるが如し。余二十歳より二十四歳頃まで芳原のみならず洲崎にも足繁く通ひしことあれど、閨中の秘戯人を悩殺する者殆絶無と云ひてもよきほどなり。之に反して其頃より浅草の矢場銘酒屋の女には秘戯絶妙のもの少からざりき。三四十年の星霜を経たる今日、再びこの里に遊ぶこと既に数十回に及ぶといへども、娼妓には依然として木偶に均しきもの多し。余がこのたびの曲輪通ひは追憶の夢に耽らむためなれば、其他の事は一切捨てて問はざるなり。》(七月九日「日記」)
つまり、吉原には《秘戯絶妙のもの》はいないが、玉の井にはいたということであろうか。何にしても荷風は、吉原では「?東綺譚」のお雪さんに当るような人物にはめぐり合わなかったと見える。しかしこれは、お雪さんが《秘戯絶妙》であったというようなことではない。私には勿論、玉の井と吉原の女を比較して《秘戯》の優劣を論じるほどの素養はない。ただ前にも述べたように、吉原はあまりにもダダっぴろく、かつ鬱然たる伝統にささえられているためか、私などかえって性欲が拡散してしまって、自分自身が《木偶に均しきもの》になるような感じであった。そこへ行くと玉の井は、公認の遊郭ではないから、私たち学生は小窓の傍(あた)りを歩いているだけで刑 事に勾引さ れる危険もあったが、それだけスリルもあり、家も小さくまるで下宿屋に蒲団が敷きっぱなしになっているようなものだから、すべてが日常的な感覚で対応出来た。そこでは私たちも、お雪さんとまではいかなくても、生きた女にめぐり合う可能性はあったわけだ。
それかあらぬか、吉原を舞台にした小説は短篇「おもかげ」が一本あるだけで、ついに「?東綺譚」に匹敵する作品をのこすことは出来なかった。《妓楼が余の寝室の如く》になるほど熱心にかよいつめたにもかかわらず.......。しかし繰り返していえば、「?東綺譚」がすでに必ずしも玉の井の実態を写すことが目的ではなく、過去の幻影を裏ぶれた私娼窟の女のうえに描いたものだとすれば、《余がこのたびの曲輪通ひはつ追憶の夢に耽らむためなれば、其他の事は一切捨てて問はざるなり》という吉原通いは、最初から「?東綺譚」の二番煎じであったといえよう。勿論、日常生活でわれわれは同じことを倦きるまで何度でも繰り返す。しかし、それは小説のモチーフになり難 いわけだ。
たしかに、荷風は吉原を小説にかくことには成功しなかった。ただ、吉原に通いつめて、なぜそんなに《追憶の夢に耽ら》んことを切望したのかという心持だけは、日記の中に不言不語のうちにも惻々とつたわってくる。
《七月十三日。浪花屋を出て黎明の廓内を歩む。風なく蒸暑ければ嫖客娼妓いづこの家にても表二階の欄干に凭(もた)れ、流しのヴィオロン弾きを呼留むるあり、或は半ば裸体になりて相戯るるもあり。客なき女は入口の土間又妓夫台のあたりに相寄りで低語するさま、是亦むかしの吉原には見られぬ情景なり、京町一丁目太華楼に登り一睡せむとするに俄に腹痛を催す。娼妓白金懐炉に点火し来りて介抱すること頗(すこぶる)親切なり。腰痛しずまる時驟雨一過し、拍子木の音八時を告ぐ。大音寺前より車をやと(難漢字)つてかへる。終日困臥。夜執筆。》
朗々誦すべき美文に酔わされながら私は、その筆者の孤独な想いに暗然とならざるを得ない。荷風は前夜から、浪花屋で大勢の女を呼び集めて、吉原の昔話にふけっている。明け方になって、一人で遊郭内をさまよい歩きながら、この老作家の胸中には一体どんな想いが去来していたのであろうか。すでに新しい小説の立案に失敗していること、つまり、吉原では新しい「お雪」に出会う可能性のないことを、荷風は感づいている。しかも、なおこの土地を去り難いのはなぜだろう - ?
《〇浪花屋老婆の談に曰く、むかし京町一丁目裏に在りし料理屋金子と、柳嶋の橋本および浅草田圃の大金と、この三軒は同じ棟梁の建てたる普請なりと。此説に拠るところ或るものの如し。余金子の家屋は能く記憶せざれど、橋本大金の二軒はよく知りたり。大金は二階立てならず、橋本は川にのぞみ建てられたり。清洒軽快なる其家づくりは当時人の称する所、小林清親の名所絵にもあり。写真にもうつされたり。之を今日の破風(はふ)造りの二階に比すれば一見して都人の趣味の相違を知り得べし。一は京伝南畝の散文の如く、一は現代文士の文の如し。》(七月十二日「日記」)
これを文明批評として見れば、「冷笑」以来、相も変らぬ千篇一律のグチに過ないであろう。今日の東京の建築物がいかに醜いかは、拙劣な文章しか書き得ない私たちも知っている。しかし昭和の吉原の建物が、大仰な構えであればあるほど、醜く滑稽であったのは、勿論建築技術の問題だけではない。要するに、吉原をふくめて江戸時代から引き継いだ文化が、決定的に時代に合わなくなってきたということであろう。しかも吉原は、その消滅の時期がくるまでは、みずから存続せざろう得なかった。これは荷風が自分の住む家にペンキを塗って偏奇館と称したことも、少からず照応することであろう。