(巻二十一)人に似てかなしき猿を回しけり(西島麦南)

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1月6日日曜日

小寒、寒の入りだそうで確かに寒い。毛布を陽にあてようとようと準備したが、10時半を過ぎてからにした。

きびきびと応ふる寒に入りにけり(松本たかし)

日蝕のせいか、陽の力が弱い?出してすぐに取り込めた。最初から止めておけばいいのだが、は言い出したら聞かない。

杞憂あり明けて朝来て毛布干す(鈴木明)

別に細君が檀氏の“鍋”を読んだわけではないが、わが家も豚白菜鍋になった。
ものぐさ夫婦でありますから、鱈なんてものは入れません。

射的屋のむすめものぐさ秋祭(小沢信男)

白菜と豚の薄切りなら買えるでしょ?と使いに出されてお買い物。

白菜を旨しと思ふ無位無冠(山尾かずひろ)

買い物のついでに菊水とつくねのパックを仕入れた。さて寝酒が楽しみだい!

寝酒の友に朝日俳壇を招いた。そして三句書き留めました。


来し方を顔に刻みて日向ぼこ(日下光代)

車中みなスマホの穴に籠る蛇(中沢弘基)

束の間の自由を得たり木の葉舞ふ(田中節夫)

三句目を私は悲しい句として受け止めました。枝と云う拘束・しがらみから解放されたのかもしれませんが、僅なときを終われば地にまみれ消滅してしまうわけです。死の前の昏睡の時間のようにも思えます。

田中節夫氏の句から私が連想した句は、

一枚の葉になりたくて銀杏散る(沼尾紫朗)

一枚の落葉となりて昏睡す(野見山朱鳥)