「ゼイタク論 - 三木 卓」

「ゼイタク論 - 三木 卓」

贅沢とはまったく縁のないような青春時代を送った。戦争中の育ちで、戦後の低賃金の時代に就職した引揚者の子だったから当然のことだと思う。
そういう生活のしかたをしてくると、自分で自分ががっかりするようなことがある。たとえば、贅沢なみなりをしたり、派手な生活をしたりしている人に対してただそれだけで反撥(つまりやきもちなのだろう)してしまったりする反面、自分自身を卑下して扱うようになったりするということがある。
たとえば、ちょっと贅沢なもので欲しいことは欲しいのだけれど自分でそれだけのお金を出して買うのはどうか、と思うようなものを、他人からいただいたりすることがある。そんなときとてもうれしい、と思う反面、それを自分が使用する、というようなことがどうもぴったりこない。「なんだか、おれにはもったいないみてえだなあ」と呟いて家内に笑われたりしているのである。
しかし、これは、そうとうけしからんことではあるまいか。どんな豪華なものといっても、ものはものである。わたしがロールスロイスに乗ろうと、百万円のドレスウオッチを身につけようとわたしの勝手であって、もの(物)の方にそれを所有するもの(者)をきめられることがあっていいわけがない。そういう自分に気付くと腹が立ってくる。
いわば、わたしは、ものに負けている、というところがあって、この関係をやはりもっと別のものに変えていかなければならない。
では、わたしは贅沢品に関心を持ち得ないのか、というと、そうでもない。贅沢といくことにもいくつかの意味があって、そのひとつに人間の自由を拡大してくれる、ということがある。たとえばカメラをとってみてもいい。
自動車でもあるいは家屋でも、いいものということのなかには、機能としてすぐれている、ということがある。だから、この場合、すぐれた機能を買う、ということになるのだろう。
もっともその場合、これは贅沢とはいえないかもしれないとも思う。一種の〈実用〉の範囲に入ってくるとも思われるので、私などには興味の持ちやすい範囲であるともいえる。しかし、排気量の大きな車でのりごこちがよい、とか、加速性能にすぐれているとか、ということには、やはり贅沢というべき要素もあると思う。加速性能がよかったために事故をまぬがれた、というようなことがあるとは思うけれど。
しかし、いずれにせよ贅沢というものには快感がつきものだ、と思う。
いいものにはいったん体験してしまうとその快感が忘れられない、という側面がある。そしてまた、贅沢というものには、たとえば酒に象徴されているように、おいしいものを飲むといままでおいしいと思っていたものまで色あせて見えてくる、ということがある。学生時代、わたしは二級のウイスキーを飲んでいて、一級のウイスキーというとボトルが光りかがやいて見えた。しかし、今のわたしはだいたい国産の特級ウイスキーを飲んでいて、スコッチにもうまいものとまずいものがあるなと思うようになっている。いまにもっといいウイスキーを飲む機会があれば、それが基準になるかもしれない。わたしなどでもそういう体験が幾度かあり、はじめは、そんなものは自分にふ さわしくないものだ、と思っていたにもかかわらず、それが当然だ、というように変っていった。たとえば、よく女性から聞く言葉であるけれども、指輪なんて、と思っていて、いったん指輪をしてみると、今度は指輪なしでは寂しくてたまらなくなる、などということもそのひとつである。
ところでうまい酒を飲むことは人間的自由の拡大だろうか。ダイヤモンドの指輪をすることが人間的自由の拡大だろうか。そうもいえるかもしれない。しかし、そのことに人間が「魅せられている」という言葉の方がよりぴったりくるような気がする。そしてこれらには先にいった〈実用〉とか〈機能〉といったこととは質的なちがいがあるように思う。それは「生きている」という自分の状態を、外から何かを持ちこむことによってより充実したものと感じたい、という欲求であることで、その点では〈実用〉ということとひとしい。けれども、〈実用〉ということの場合には、その持ちこんで来たものとの格闘がある。フランス製の高価な絵の具を買ったとしても、それを使い こなさなけ ればならないし、そうであってこそそのものものが生きる。
しかし、「魅せられる」ということは、そういう形で対象にかかわることとはちがう。そのものとともにあることで、ともにあるだけで自分の生が充実したブリリアントなものになる、という予感である。なるほど酒は味わうべきものであるし、この場合は予感とはいえないが、豪華なボトルをテーブルの上にのせて、これを自分のものにしたらという気持もある。そしてうまい酒を味わう、というときには酒にまかせておけばいいので、格闘する必要はない。
そしてこの「魅せられる」という状態にもさっき書いたように際限のないところがある。だんだん、もっといいものがほしくなってくるし、より豪華なものを手に入れると、今度はそれが基準になってくる。わたしたちはそういう欲望を持っていて、いつもそういう衝動を満足しきれないでいる。わたしにだってある領域に関してはそういうものがあると認めなければならない。
贅沢への欲望、奢侈への欲望というものは底なしに際限がない。もし野ばなしにすれば人間は破綻してほろびてしまうだろう。わたしたちはそのことを知っているから、無意識のうちにブレーキを掛ける。そういうことをしないように自制する。
しかし食欲、性欲、物欲というように、贅沢への欲望はやはり生きものとしての人間にとって根源的なもののひとつであることもまた確かなことである。わたしたちはこれを禁圧しなければいけない、と思っている。そして、これらの欲望をなるべく見ないようにしているところがある。自分の欲望の深さはおそろしいし、他者の欲望に侵蝕されるのはまっぴらごめんである。
そこで贅沢に対しても、これを忌まわしいものとして扱うか、知らん顔をするか、適度に矮小化して扱うか、といったことになる。一点豪華主義などということがいわれる所以である。
現実に資産に限りがある以上、野放しの贅沢は不可能である。しかしだからといって贅沢を正面から見ない、ということはどうだろうか。なぜならわたしたちはおいしいものを食べたい、異性とは仲よくしたい、きれいなものを身のまわりに置きたい、と心の底からねがって生きているのであり、これは真剣な欲望である。わたしたちはだれも、自分の生をより高いレベルで充足したいとねがっている。自分の生をできる限り深く広く完成させるという行為の一部分と深くつながっていることなのである。
人間の欲望には際限はない。また破壊的な悪魔的な部分もある。だからどんな時代、どんな社会が来ても、すべての人間の生の欲求を満足させることのできるようなことは決して起るまい。しかし、だからといって頭から押えつけてしまう社会はどうか、とも思う。人間の欲望をひとまわりでもふたまわりでも大きく実現させることの出来る、そしてしかも、人間一人一人を大きく完成することの出来る社会こそ、わたしたちが望むものである。
わたしが貧しい生活をして来て口惜しく思うのは、やはりそういう意味での〈生きる〉ということをずいぶんとさまたげられてきた、ということである。やはり一度限りしかない生では、出来る限りの深さと広さで世界を味わいたいではないか。
しかし、そこで、では単に贅沢できればよかったか、贅沢であり得さえすればいいのかというと必ずしもそうではない。贅沢にはまた、ともすれば日常化すると鈍感になるという一寸気に入らない側面があることも否めない。あたりまえのことだが、ものの価値というものには一応ねだんはついているけれども、つまるところそれを手中にした人によって決定されるものである。その人がなんの関心も興味も持ち得なかったら何の価値もないというべきだろう。そのような贅沢があたりまえになってしまうと、その人間にそのものは何の痕跡ものこさずに消えていってしまう。それに対して卒業したときにお祝いにもらった、たった一本の万年筆が、腕時計が、なくしてしまったら 二度と買えないとわかっている貧しい少年にとってはどれほどの価値があるかわからない。枕もとにおいて寝る、といった感動と大切に扱うという愛によって、それは(たとえ安物であろうと)かれにとってはすばらしい贅沢品なのかもしれないのである。
とすると、わたしたちは、贅沢ということは、それぞれの物質的状態のレベルによってちがうけれども、やはり、つねに贅沢をするということはなかなかむずかしい、ということになる。ともすれば、物から物へとわたりあるく、つまり物に対するドン・ファン的状態に陥りやすいわけだ。心が物に対する新鮮な感受性を失うということは、世界に対する興味を失う、ということであり、これはやはり一種の弛緩というよりない。
色即是空という言葉があるように、わたしたちがどこまでも、極限まで贅沢を追っていくことが出来るとしても、そのときにはあるいはひどく空しいところへ出ることになるのかもしれない。
そういう果てにいる人間、ないしそれに類似した場にいる人間には関心がある。そこにはものにひきずりまわされてアップアップしているわたしなどには考えもおよばないような視界がひらけているのではないだろうか。