1/2「(遠野物語)解説 ー 山本健吉」新潮文庫 遠野物語 から

1/2「(遠野物語)解説 ー 山本健吉新潮文庫 遠野物語 から



明治四十一年十一月四日、牛込加賀町の柳田氏の家へ、水野葉舟(ようしゅう)がはじめて佐々木喜善を連れて来た。佐々木は岩手県上閉伊郡土淵村の生れで、同郡山口村の農、佐々木家の養子となった。このときは数えてニ十三歳、早稲田大学の文科にはいり、文学に志を持ち、『芸苑』その為の雑誌に幾篇かの短篇小説を発表していた。号は鏡石。交友が広く、後にみずから希望し教師として遠野の学校へ赴任した折口信夫門下の民俗学者山下久男氏によれば、当時前田夕暮水野葉舟三木露風とことによく往来していたという。
葉舟はそのころ歌人、小品文作家または自然主義小説家のひとりとして活躍し、古くから土曜会の常連で、柳田氏とも親しく、その文章に もあちこ ちに登場する。豊後の吉吾話(キッチョム話)の面白さを氏に説いたのも葉舟で、また氏の『遠野物語』が出た一、ニ年前に、東北旅行から還って来て、花巻の某家で多量の郷土誌の写本を所蔵していることを、氏に告げたりもしている。この東北旅行の縁で、彼は佐々木と知り合ったのだろう。柳田氏の民俗学への興味に傾いて行くのに、いちばん関心を寄せていた文学者仲間の一人で、佐々木喜善が語り出す郷里の奇聞が、柳田氏を喜ばせるに違いないという期待をもって、柳田家に伴ったのだと思われる。
佐々木が柳田氏に近づいたのは、当時の藤村・花袋等第一線作家たちのきわめて近くにあった柳田氏への好奇心もあったろう。だが、氏は彼が遠野郷の伝説・信仰・風俗・昔話など、珍しい民間伝承に通じ ているのを知って、何かぱっと自分の興味の灯がともされたような気持がした。佐々木はおそらく、不思議な伝承型の頭脳で、次から次へと限りもなく彼が繰り拡げる話題に、まだ見ぬ遠野郷とそこの住民たちの世界が、眼前にまざまざと躍動して来るように思われた。氏の脳裏に描き出されたその小盆地は、まるで氏のために存在したのではなかったかと思えるほど、氏の関心する風景に充ちていた。
佐々木自身は、志は文学の創作にあり、自分が胸に蓄えている郷土の伝承が、如何に価値のあるものであるかは知らず、それを自分の名において採集し、記録し、研究しようという気持はなかった。だから柳田氏が、彼の語るところを筆録したいという申入れを快く引受け、毎月二日の夜柳田邸に出掛けて口述し た。その間の事情は、戦時中に山下久男氏が、ガリ版の小冊子として刊行した柳田氏の佐々木宛の書簡集によつて知ることが出来る。(これは書簡一〇八通を収め、後に『定本柳田国男集』別冊第四に収録された。)
この書物は、簡潔な文語体で書かれている。佐々木の話がどの程度に簡潔であったかは知らないが、これは氏が思いきって枝葉末節を苅りこんで、事実の記録だけに止めたものと思う。主観を圧(おさ)えて、記録の客観性だけに終始しようとする氏の文脈の中に、圧えきれぬ氏の学問的興奮の渦を、見出すことが出来る。私たちはこの小冊子を読み、そこに浮彫りされた遠野郷の生活と自然とにひたることによって、日本民俗学の成立という一つの事件に、まさに立ち会っていることになるのである。&l t;/ div>



柳田氏は東京帝国大学法科大学政治科を卒業して、すぐ農商務省農務局農政課に入り、かたわら早稲田大学で農政学を講義した。氏は『故郷七十年』の中で、幼少年時代を振りかえって、十一歳のころ飢饉の実態の悲惨さを経験し、十三歳のときに地蔵堂の絵馬によって、産褥の女が生れたばかりの嬰児を抑えつけている凄惨な絵を見て大きなショックを受け、それらの印象が自分を農民史研究に導く動機になったと言っている。氏の学問につかまとっている経世済民的思想は、その基づくところが遠い。農政課では、産業組合と農会法との啓蒙のために、旅行の機会が非常に多かったが、この旅行好きは氏の終生の性向となった。「しんみりと歩く」という表現を氏はしているが、主として草鞋ばき の旅で、農民たちの生活外形の観察に止まらず、その意識の底に眠る混沌とした微妙なものに至るまで、膚で感じとりたいと願う。このような旅行に、無類の読書を加えて、それは氏を農政学や農民史の研究に止まらず、広く日本の常民の生活意識の根源に横たわるものの探求に向わせたのであった。
氏の文学者とのつきあいは少年時代から始まっているが、明治三十五年ごろからは、花袋・独歩・藤村らと談話会を開き、これが後の龍土会、またはイブセン会の前身となった。あたかも柳田家が彼等のサロンのような形となり、氏は巧みな座談で、いち早く外国の小説・戯曲の内容を紹介したり、自分の見聞を彼等の小説の題材として提供したりした。日本の近代文学の主流に近く位置しながら、自分は創(つく) らず、彼等の創造力の鼓吹者となった。花袋が『重右衛門の最後』を書いた時は、わざわざその家を訪ねて自分の感動を伝えたが、『蒲団』を書いた時は、不愉快で不潔な小説として、面と向って激しく罵倒した。だがその『蒲団』が日本の自然主義の勝利を不動のものにした記念碑的な作品で、その後日本文学の私小説への傾斜を不可避なものにしたのだから、その時の氏の姿勢が、当時の文壇と氏とを大きく背馳(はいち)せしめることになったのである。
その後の文壇文学から氏の気持が離れたのは、それが自分の身辺記録にばかりこだわって、うその面白さを喪失してしまったということもあるが、根本はそれが都会の一部の知識人の世界にばかり執着して大多数の常民の世界を忘れてしまったからであった 。 

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